市民美術大学 2015 平野 到
ミラノの虎 タイガー立石のイタリア時代

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ミラノの虎 タイガー立石のイタリア時代
市民美術大学美術講座 2015
2015年6月13日
埼玉県立近代美術館 主任学芸員
平野 到

今日は誰か一人のアーティストについて話をするという主旨でしたが、これまで多くのアーティストとの出会いがあり、調査をしてきましたので、話したいアーティストはたくさんいます。学芸員にとって一人のアーティストを選ぶのは実はたいへん難しく、悩みました。さんざん迷った結果、せっかく九州でお話をさせていただくので、九州に関連した作家を取り上げたほうが良いかと思い、筑豊の炭鉱の町、田川市(旧・伊田町)出身のタイガー立石についてお話しいたします。
 ご存知の方も多いと思いますが、タイガー立石はアーティスト名で、本名は立石紘一といいます。1941年生まれで、1998年57歳で他界されましたが、亡くなった後も若い世代から支持されています。例えば2010年には、デザイナーの祖父江慎さんが編集した『TRA(トラ)』が、昨年は『ムーン・トラックス』が工作舎から出版されています。人気が持続している大きな理由の一つは、美術や絵画といった、既存の狭い領域にとらわれないで活動した点にあると思います。最初は美術家として出発しましたが、その後漫画を手がけ、またデザインに関わるイラストレーションを手がけ、絵本も作り、さまざまなジャンルを横断しながら制作を続けました。イメージを描くとはどういうことなのか、視覚表現の面白さはどこから来るのか、そういうことを、狭い意味での絵画論などにこだわらず、もっと広い視野から問い続けた姿勢が、今日の評価に繋がっているのではないかと思います。埼玉県立近代美術館は、タイガー立石の作品を数多く所蔵していることもあり、ここ10年ほど調査を続けてきました。今日は、あまり知られていないタイガー立石のミラノでの活動に焦点を当ててお話しいたします。

タイガー立石は1969年3月、27歳の時にミラノに渡り、82年まで13年間ミラノで活動していました。ミラノを目的地にして移り住んだというより、日本を離れることが目的でした。ですから、ミラノでなくても、パリやロンドンでもよかったのかもしれない。なぜ日本を離れたかったかという理由は、60年代の日本での活動とも関連しています。60年代の活動についてはこれまでも様々なところで紹介されていますので、今日は簡単に触れるだけにしますが、60年代は新人作家として各方面で注目されていました。九州から東京に出て武蔵野美術短期大学に通い、在学中に読売アンデパンダンでデビューし、期待される新人として評価されます。評論家の東野芳明が、当時東京で有名だった南画廊のために企画した「ヤング・セブン展」の出品作家に、1964年、22歳の時に選ばれています。そのとき出品したのが、《立石紘一のような》という幅2.5メートルぐらいある大型の作品です。同じ展覧会には荒川修作、三木富雄、工藤哲巳、菊畑茂久馬、中西夏之、岡本信次郎が参加しており、60年代半ばに活躍していた重要な作家が選ばれていました。その点から考えても、立石紘一(タイガー立石)が新人としていかに期待されていたかが分かります。60年代後半になると、子どもの時から大好きだった漫画を描き始めます。漫画はコマの制約がありますが、時間を伴う表現ができたり、その中でイメージを解体したり、変容させたり、いろんな展開が可能です。そういう漫画の自在さにタイガー立石はのめり込んでいきます。毎日中学生新聞や少年サンデーなどに次々連載され、かなり評判になり、赤塚不二夫とも親しくなります。ところが、美術でも漫画でも活躍が期待されていたにもかかわらず、本人は一旦日本での関係を全部切断したいと考えました。それがこの作家の特異なところで、生き方の美学なのでしょう。そして日本を離れる決断をします。ミラノという場所を最終的に選択したのは、パートナーの立石富美子さんの知人がたまたまミラノにいたからで、イタリアの美術界に憧れてミラノを選んだわけではありません。とりあえずミラノに移住したというのが実情だと思います。
 ただし、海外で自分の作品が通用するのか、どれだけ理解されるのか、そしてそれで仕事ができるのかについては、色々と考えていたようです。実は渡航する前に漫画で試しています。『プレクサス/Plexus』というフランスの雑誌の編集部に自分の漫画を送っています。『プレクサス』はフランスで1966年から1970年ぐらいまで出版されていた、今でいうサブカルチャー雑誌です。4年間で36刊出版されていますが、ビジュアルが中心で、アングラ好きの若者に人気があり、世界的に流通していました。日本でも銀座の洋書を扱っていたイエナ書店などで手に入れることができたようです。ウィリアム・バロウズや同時代のカウンター・カルチャー的な題材、サイケデリックな表現や音楽、ちょっとエロチックなものなど、様々な同時代的なテーマがごちゃ混ぜに掲載されていた雑誌でした。『プレクサス』に漫画を送ったところ、68年から69年にかけて3回掲載され、掲載料も小切手で貰えたそうです。このフランスの雑誌に掲載されたことで、ある程度自分の表現が海外でも通用する、理解されるという感触を掴めたのでしょう。

(図1)
図1) タイガー立石《Motel》1969年、油彩

ミラノで最初に集中的に取り組んだのは、コマ割りの漫画をもとにした、大型の油彩画の制作でした。1969年に制作された《Motel》(図1)は、コマ割りの油彩画として描いた最初の作品です。166×120センチですから大型の絵画です。内容は、奇妙な宇宙の生命体のようなものがモーテルに入っていって、そのままモーテルをのっとりUFOになって飛んでいく、というストーリーです。


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