市民美術大学 2015 平野 到
ミラノの虎 タイガー立石のイタリア時代

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なぜ世界的な画商イオラスが、海外ではほとんど知られていなかったタイガー立石の作品に興味を持ったのでしょうか。これは私の推測の域を出ませんが、思い当たる理由を幾つかお話ししたいと思います。イオラスが50年代から最も熱心に支援していた画家の一人が、マグリットでした。マグリットの作風は、けして抽象的ではなくて、具体的なイメージを扱い、それを現実的にはありえない組み合わせで描いています。例えば、《空の鳥》(1966)では、夜の空を飛ぶ鳥がモチーフですが、鳥と空という地と図の関係、また昼と夜という関係を逆転させ、それをイラスト的な明快な表現で描いています。マグリットのこういう画風は、タイガー立石にも部分的に通じる表現です。コマ割りによる時間の表現などはタイガー立石独自の特質ですが、イメージの扱い方や描き方において、この二人の画家に共通する部分は少なくないと思います。イオラスはおそらく感覚的にそんな二人の共通性を感じ取ったのではないでしょうか。
 イオラスはマグリットよりもっと若い世代の作家とも仕事をしています。その一人がアメリカの西海岸出身のエド・ルシェです。1937年生まれですから、タイガー立石と4歳しか違わない、ほとんど同世代の美術家です。ルシェは現在では世界的に知られる作家ですが、まだ無名であった1967年に、ニューヨークのイオラス画廊で個展を開き、70年代初めまで継続的にイオラス画廊で個展を開催しています。ルシェはポップアートやコンセプチュアル・アートの文脈でしばしば論じられている美術家です。60年代、ルシェは、マスメディアや大衆に共有されているイメージや単語を、そのまま広告的な様相で絵画に描く作品を発表していました。20世紀FOXパースの効いたロゴをそのまま絵画に描いた《8つのスポットライトのある大きな商標》(1962)などはその代表例です。ちょうど同じ頃、タイガー立石も、イタリアに渡る前ですが、1960年代前半に、やはり文字をモチーフに広告宣伝のような表現でパロディ的に描く作品を制作しています。《フン》(1963)(図5)や《立石紘一のような》(1964)などです。

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図5) 立石紘一《フン》1963年、グワッシュ

もちろんルシェとタイガー立石は、本質的には全く違う作家ですが、広告看板やロゴなど、世間に流通している月並みなイメージをためらうことなく大胆に絵画に転用する点では、興味深い共通性が指摘できます。もちろんイオラスは、タイガー立石のイタリアに渡る以前の初期作品については、ほとんど知らなかったでしょう。しかし、ルシェに見られるような大衆的なグラフィックな要素を絵画に取り入れていく感覚を、タイガー立石のコマ割り絵画からも感じ取り、その部分に関心を抱いた可能性は否定できないと思います。
 イオラスとの関係は、画廊が76年にミラノから撤退してしまうため、5年ほどしか続きませんでした。しかし、その間にイオラスは相当数のコマ割り絵画をタイガー立石から購入し、この画家を支援しています。残念ながらそれらの作品は現在散逸してしまっていて、一部の作品を除き所蔵先が不明になっています。それらの作品について、引き続き追跡調査をしていきたいと私は思っています。

ミラノ滞在中のタイガー立石は、別のジャンル、すなわちデザインや建築の分野からも注目され、優れた仕事を残しています。とくに、イタリアのデザイナー、建築家として世界的に影響力をもったエットレ・ソットサス(1917~2007)との関係は重要です。この人物と知り合って、4年にわたり一緒に仕事をしたのですが、そのことはあまり知られていません。ソットサスは、1969年にイタリアのオリベッティ社から販売された赤いタイプライター《ヴァレンタイン》のデザイン(ペリー・キングとの共作)などで一般的には広く知られているかもしれません。しかし、ソットサスは多面的な仕事をしており、なかなか簡単には説明しにくいデザイナーです。あえて簡潔に言うとしたら、いわゆるモダニズム的な機能美を最優先していくデザインには、あまり興味を示さなかった人です。むしろ人間の心や精神を解放してくれるデザインとは何か、オフィスでの退屈な仕事や時間をやり過ごすためには、どんな遊び心のあるデザインが必要かなど、そういう観点をもったデザイナーです。使いやすさやスマートさを追いかけるのではなく、ユーモアがあって、人間の精神を活性化してくれるデザインを唱えようとした人なのです。ソットサスのそういう考え方に共感し、親交のあった日本のデザイナーとして、倉俣史朗が挙げられます。
 タイガー立石と知り合った時、ソットサスはもう50歳を過ぎていたにも関わらず、イタリアの若い世代の建築家やデザイナーから教祖的な存在として支持されていました。その理由の一つとして、ソットサスは60年代に登場する新しいカルチャー、例えばポップアート、アメリカのカウンターカルチャー、ヒッピーの思想、そういうものに強い関心を持っていたことが挙げられます。ソットサスは、実際に1961年にインド、62年にカリフォルニアにも滞在しています。67年と68年に『ピアネータ・フレスコ(新しい惑星)』という、サブカルチャー的な雑誌を自ら中心になって編集し、自費出版に近い形で刊行していますが、その内容を見ると当時のソットサスの関心がよくわかります。アレン・ギンズバーグなどの文章が掲載され、グラフィック・デザインはポップやサイケなもので、当時のドラッグ文化やカウンターカルチャーなどのボキャブラリーに満ちた、ひじょうに刺激的で挑発的な雑誌です。ちょうどその直後の69年に、タイガー立石はミラノに渡り、71年に知人に紹介されて、ソットサスを訪ねています。ミラノで描いていたコマ割り絵画を見せるとソットサスはそれを大変気に入り、自分の事務所でグラフィック関連の絵を描いてくれないかとタイガー立石に仕事を依頼します。それから4年間タイガー立石はソットサスのもとで仕事をすることになりました。
 事務所の人たちもタイガー立石の絵画にひじょうに興味を持ったようです。コマ割り絵画の第一号《Motel》を、当時ソットサス事務所で家具デザインを担当していたイギリス出身の女性デザイナー、ジェーン・ディロンが、給料をはたいて購入したそうです。ジェーン・ディロンはロンドンのロイヤル・カレッジ出身で、現在もイギリスで活躍している家具デザイナーです。彼女の親友には、英国のイラストレーター、ロジャー・ディーンがいました。ロジャー・ディーンは当時、レコードのジャケットなどを手掛けていた世界的なイラストレーターでした。イギリスのロック・グループ、イエスが1972年に発表したレコード『こわれもの』のジャケットなどが有名です。ロジャー・ディーンはジェーン・ディロンを通じてタイガー立石を知り、彼のコマ割り絵画を気に入り、イギリスで本を出版する計画まで持ち上がったそうですが、実現はしませんでした。同時代の不思議な接点があるエピソードです。またソットサス事務所と深い関係があったオリベッティ社も、タイガー立石の油彩画《An apple》(1971)を収蔵しています。オリベッティ社はタイプライターの会社として20世紀初頭に始まり、その後計算機やコンピュータなど、事務機器を中心に生産していた会社ですが、アーティストやデザイナー、建築家に対しても熱心に支援をしていた会社でした。
 ソットサスとの関係を得てから、タイガー立石はデザインや建築の方面からも注目を浴びるようになります。例えば1975年には『カサベラ』というイタリアの建築・デザインの雑誌がタイガー立石のコマ割り絵画を表紙に掲載し、特集を組んでいます。1970年代前半の『カサベラ』は、当時のイタリアで最も重要な建築・デザイン雑誌でした。ソットサスと並んで当時のラディカルなデザイン運動を牽引していた建築家アレサンドロ・メンディーニが、『カサベラ』の編集長をしていたからです。この雑誌はデザイン、建築に限らず、世界中の同時代の先鋭的な芸術家を熱心に取り上げていました。

タイガー立石がソットサスのもとで手掛けた仕事についてですが、主にソットサスの空想のアイディアを視覚的にイメージ化する作業をしていました。というのも、当時のイタリアの建築家やデザイナーにおいて最も重要な表現手段は、空想のアイディアをいかに視覚的に表すかということでした。1960年代半ばから70年代半ばにかけて、イタリアだけでなく世界中で、デザインや建築を根本から問い直す動きが起こります。イタリアでは「ラジカル・デザイン」、「ラジカル・アーキテクチャー」などと呼ばれていましたが、ソットサスはその動向を先導していた人物の一人でした。現実的なアイディアやデザインに従って製品を作ったり、建築を建てたりするのではなく、むしろ当時の反デザイン、反建築といった思潮のなかで、ユートピア/ディストピアにまつわる空想のヴィジョンが論点になります。未来に対するヴィジョンや、近未来の世界の姿を提示して議論していくのが盛んな時代だったのです。それゆえ、空想のアイディアやイメージをいかに視覚的に表わすかが、デザインや建築の世界で重視されました。例えばイタリアのラジカル・アーキテクチャーや反建築の文脈で、アーキズームと並んで良く知られている、スーパースタジオという建築家グループがありました。彼らは1971年の『カサベラ』誌上で、空想の建築的イメージをストーリー性のあるドローイングで発表しています。砂漠のような空間に、巨大な構築物が現れて、それが次第に『2001年宇宙の旅』のモノリス(石板)のように空を飛んで、それが再び地上に舞い降りて、巨大な構築物になって連続していく、というような内容です。架空のストーリーですが、SF的でコズミックなイメージです。どこかタイガー立石のコマ割り絵画に通じるヴィジョンを共有しているようにも思え、興味深いですよね。こういった表現が同時代に盛んだったわけです。また、同時代のイタリアの建築家で、マッシモ・スコラーリ(1943~)という人がいます。ほとんど建築を作らない、アンビルドの建築家として知られていますが、想像上の建築物のドローイングを多数発表しています。タイガー立石はスコラーリのドローイングにひじょうに興味を持っていて、画集を大事に持っていました。こうした時代状況において、ソットサスの空想上のアイディアを誰よりも魅力的に、かつ具体的なイメージとして描くことができたのが、タイガー立石だったのでしょう。

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図6) 『カサベラ』誌365号(1972年5月)。ソットサスの空想のプロジェクト《祝祭としての惑星》が特集されており、その原画をタイガー立石が描いている。表紙は同プロジェクトの「室内楽を聴くための筏」。
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図7) エットレ・ソットサス/原画・タイガー立石《祝祭としての惑星:ワルツ、タンゴ、ロック、チャチャの音楽を提供する巨大な自動販売機》1972年、リトグラフ

ソットサスとの仕事のなかでも、とりわけ《祝祭としての惑星(planet as festival)》という空想建築のシリーズは、1972年に『カサベラ』等に掲載され、同時代の建築界に大きな衝撃を与えました(図6、7)。タイガー立石がこのシリーズの原画をすべて描いており、原画の多くは、現在、ニューヨーク近代美術館に所蔵されています。この《祝祭としての惑星》が発表された時、ソットサスはメッセージを添えています。それを読むと、「人々は社会的な制約や貨幣経済から解放され、どこにいても食べ物やドラッグや音楽を自由にかつ無料で楽しみながら、生きている実感を自分自身の精神と肉体で確認できる近未来のヴィジョンを提示している」、そんな主旨が書かれています。まさにソットサスらしい、人間の自由な精神を保障するヴィジョンを発表したわけです。
 これらのイメージに関して、どの程度ソットサスからの具体的な指示があったのかが気になります。それについて、タイガー立石が生前に興味深い言葉を残しています。「大雑把なものだった。細かい指示はまったくない。むしろぼくなりに時代を読んで描いたものを彼がチョイスした、といったほうがいいでしょうね。つまり彼が関心を持っていたインド的なものと、ぼくの好きないままでの文明にないようなSF的な世界とが彼のイメージの中で接点を見いだした、と思っているんですけど」と語っています。これを読むと、ソットサスのプロジェクトではありますが、多くのイメージはタイガー立石によって視覚的に具体化されたのではないかと推測できます。そういう意味で、これらの仕事はコラボレーションに近いような作品だと私は捉えています。しかし、《祝祭としての惑星》は世界的に知られている作品ですが、原画を描いたタイガー立石の名前がほとんどクレジットされていないのが残念です。タイガー立石がこのプロジェクトに関わったことが、もっと広く認知されるべきだと私は考えています。


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