市民美術大学 2015 平野 到
ミラノの虎 タイガー立石のイタリア時代

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イタリアの建築家やデザイナーがタイガー立石に興味をもった、さらに大きな理由があるような気がします。その点について考えてみましょう。1972年、ニューヨーク近代美術館でイタリアの先鋭的な建築やデザインを紹介する重要な展覧会『イタリア、ザ・ニュー・ドメスティック・ランドスケープ展』が開催されます。この展覧会にソットサスは、《マイクロ・エンバイロメント(極小環境)》というプロジェクトを発表します。端的に言うと、ユニットを無限に連続できる近未来の住宅のようなプランを提案したのです。製品は実現していませんが、その原寸模型を作って写真で撮影しています。けれどもその写真図版は、どこか魅力に欠けています。それに対し、この《マイクロ・エンバイロメント》を描いたタイガー立石のイラストレーションをみると、写真よりもはるかにクリエイティヴなイメージを作り出しているのが分かります。このタイガー立石のイラストレーションは展覧会のポスターにもなっており、よく知られているものです。細部にわたり実に楽しそうに描かれており、写真では伝わりにくい、近未来の住宅に向けられた「夢」がポエティックに描写されているのです。
 すなわち、写真では叶わないポエティックな描写、実物以上に艶めかしく生き生きと描く表現、ドローイングの線の痕跡がそのままモチーフの動きに繋がっていくような驚くべき線描の力、こういったタイガー立石の絵描きとしての力量に、ソットサスらは惚れこんだのだろうと私は思います。また、タイガー立石自身も、描かれたイメージの持つ潜在力、そしてイメージは描かれてこそ現実をはるかに超えていくということを、熟知していたに違いありません。こういう表現ができるアーティストは、当時のミラノにほとんどいなかったのではないでしょうか。

これまでお話ししてきたようなタイガー立石のイタリア時代の活動について、日本ではあまり知られていないのは残念です。タイガー立石というと、読売アンデパンダンでの作品発表や、中村宏とのプロジェクト「観光芸術」など、60年代を中心に語られることが多いんです。なぜイタリア時代に触れられる機会が少なかったか、理由はいくつか考えられます。その一つは、タイガー立石のコマ割り絵画が日本にほとんど所蔵されていない点です。コマ割り絵画をシルクスクリーンの版画におこした作品は、国内の美術館に所蔵されています。しかし油彩の多くは、イオラス画廊を通じて世界の所蔵家のもとに散逸してしまい、日本で実物を見る機会が少ないという理由が考えられます。もう一つの理由として、後半にお話しした内容に関わりますが、タイガー立石はイラストレーションやデザインの分野に関連した仕事を自作の制作と切り離し、積極的には人に語らなかったことが挙げられるかもしれません。しかし、今、私たちが見ると、漫画を結合させたコマ割り絵画も、ソットサス等との仕事やイラストレーションも、決して切り離せないものであり、タイガー立石という一人のアーティストから生まれてきたことがよく分かります。どの制作や仕事においても通底する表現の質が感じられ、描くことによってイメージの根源的な力を最大限に引き出そうとする、この作家の一貫した姿勢を読み取ることができるのです。
 イタリア時代の仕事は、82年に日本へ帰国してからの仕事にも繋がっていきます。例えば帰国後、絵本の仕事もたくさん手がけていきますが、その中の一つに1984年に出版された『とらのゆめ』があります。素晴らしい絵本です。それから晩年、1992年に《水の巻》という絵巻物の作品を発表しています。9メートルの巻物を全部で6本描いていて、合計すると54メートルになります。水がテーマになっていて、自分がこれまで見てきたもの、あるいはさまざまな分野で表現してきたモチーフをすべて描き尽くす、そういう作品になっています。《水の巻》も時間性の伴う絵巻物の形式を使い、線描から出現するイメージを解体・変容させています。描くという行為によってどれだけ豊かな視覚表現が可能なのか、徹底的に挑戦している作品と言えるでしょう。晩年のこれらの仕事は、イタリア時代の経験が活かされていると思います。

最後になりますが、恐らくみなさんの一番の疑問は、どうして「タイガー」という名前を付けたかという点にあるのではないでしょうか。なぜタイガーか。関係者にも伺いましたが、決定的な理由はないんです。虎のモチーフが出てきたのは、60年代、イタリア時代の前のことです。60年代に、虎のイメージと結びつく中国で文化大革命が起きたことや、虎を描くダリが日本に大きく紹介されたことに結びつける人もいるかもしれませんが、決定的な理由ではないでしょう。そういう社会的な動きも無関係ではないと思いますが、私はもっと造形的なことに関係していると考えています。虎は縞状になっていて、グラフィックな姿をしており、色彩も鮮やかです。また、タイガー立石が好んだ動的な表現を表わしやすいモチーフでもあります。繊細な動きを描こうとするならば、縞模様な尻尾の動きなどでそれが表現できます。この画家がまさに求めていた造形的な表現を体現しやすいモチーフの一つであったといえるでしょう。

【参加者】
ミラノに行ったのは、日本を出たかったということでしたが、帰国したのはなぜでしょうか。

【平野】
ミラノ滞在中は、初めはコマ割り絵画を中心に制作し、次第にイラストレーションなどの仕事が増えていきました。ソットサス事務所を通じて、オリベッティ社の正規社員になってほしいと勧められた時もありましたが、それを断って事務所を辞めています。恐らく、独立心が強く、どこにも属さずに生きたいという信条があったんですね。デザイン界からの仕事が過剰に増えてくる一方で、自分の書き溜めた漫画も出版したいと思っていたようです。漫画を出版してくれる国に移住しようと考え、ロンドンという選択肢もあったようですが、たまたま日本のある出版社から声が掛かり、帰国することになったそうです。

【参加者】
この人は、自分が日本人というような感覚、ふるさとだとか故国への思いのようなものは持ち合わせていないんでしょうか。

【平野】
故郷の田川の風景なども描いていますが、故国への過剰な想いはなかったでしょう。ですから、日本に帰りたくなって帰国したという訳ではないと思います。聞くところによれば、最後はアメリカの西海岸に行きたかったそうです。制作する場所や国がどこかというのは、タイガー立石にとってはあまり重要ではなかったのでしょう。むしろ時々環境を変えて、自分の仕事に対する新たな刺激にしていくことが重要だったのだと思います。

【参加者】
タイガー立石の回顧展を見たことがあるんですが、今日のお話のような雰囲気は感じませんでした。どちらかというと、アウトローのような、そういうイメージの人だと思っていました。今日ソットサスの事務所で働いていたと聞いてびっくりしました。そういう仕事ができたということは、もともと持って生まれたものなのか、勉強してデザインもできるようになったのか、その辺はどうなんでしょうか。

【平野】
タイガー立石は決してデザイナーではありません。ですからデザインを勉強したわけではなく、自分が描きたいものを描いていたら、ソットサスがそれに強い興味を持ったというのが実情です。生き方として興味深いのは、流派やグループのようなものに属さず、先ほども触れたように独立心の強いタイプの人だった点です。そういう意味では、日本から離れてイタリアで仕事をすることは、彼の生き方に合っていたのでしょう。

【参加者】
赤塚不二夫さんもそうですが、先駆的な人と波長が合う人だったんでしょうか。

【平野】
赤塚さんとは60年代末、まさに漫画家として活躍しはじめた頃に接点がありました。ソットサス事務所もかなり変わった事務所だったようです。事務所には、風変わりなアーティストやデザイナーが世界中から集まり、仕事をしていたそうです。ソットサスは、そういう人たちと何か新しいものを共有し、オーガナイズしていく能力に長けた人物でした。タイガー立石にとっても、そういう環境がぴったりだったのだと思います。

【参加者】
タイガー立石さんの、独創的な絵を描かれるようになった原点、そういうものはどこにあるんでしょうか。田川市の環境とか、生まれ育った環境は何か関係しているんでしょうか。

【平野】
関係していると思います。炭鉱の町で生まれ、そこで最初に興味を持ったのが、漫画と映画だったと本人が語っています。戦後、当時最先端だったディズニー映画などが炭鉱の映画館で上映され、それを子ども頃に熱心に見ています。イメージの動きや変容という、この作家特有の表現のルーツのひとつは、そこにあると思います。子ども時代に体験した漫画、映画、SF、そのあたりがひとつの出発点になっているんじゃないでしょうか。

【参加者】
なぜタイガー立石がアート以外のジャンルに注目されたのでしょうか。

【平野】
タイガー立石は、一般的には60年代前半の文脈で紹介をされることが多いです。それ以降の仕事は美術史的な観点では触れにくく、それが「タイガー立石像」を捉えきれていない大きな理由です。お話したように、狭い意味での絵画論にとどまらずに、漫画、イラストレーション、絵本なども含め、イメージの諸問題を考えることで、この作家の全体像が見えてくると考えています。タイガー立石は広い領域におけるイメージの問題に興味があったからこそ、漫画、イラストレーション、絵本の世界にも関わることができたのです。だから、タイガー立石の表現は、大衆的な次元から最先端のメディアまで、社会や文化全般が抱えこんでいるイメージの問題と接点を見いだすことができると私は思っています。それが他のジャンルの人が、この画家に興味を抱く大きな理由ではないでしょうか。

【中村】
60年代から80年代といった、現代より少し前のことを見直すと、新しい発見がありますよね。それは日本だけのことではなく、世界のことでも同じことが言えると思います。一つの分野を追求していくのではなく、一人の人間が追求してきたものが、いろんな分野に広がっていくというのは、自然なことです。分野ごとに区切って論じてきたところは、考え直す必要があるでしょう。

【平野】
正直に告白すると、私は美術史やモダンアートから勉強を始めていますので、当初タイガー立石の多方向的な表現はピンと来なかったんです(笑)。しかし色々調べていくと、イメージの生成、変容、引用、合成などについて、現代的な視点から考える上において、タイガー立石は興味深い作家だと思えてきたのです。作家も現代社会の力学のなかで様々な表現に関わっていますから、美術史的に捉えるだけでは、なかなか問題の本質は見えないものです。それを教えてくれた作家がタイガー立石でした。残念なのは、生前にしっかりとお話しする機会がもてなかった点です。それが一番悔やまれることです。
この10年ほど、ご遺族の立石富美子さんからはイタリア時代の様々なお話しをお聞きし、資料を見せていただきました。それが調査の基礎になっています。この場を借りてお礼を申し上げたいと思います。

図版資料提供 平野到 
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平野到/ひらの いたる
埼玉県立近代美術館主任学芸員。1991年より同美術館に勤務し、「1970年—物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「イスラエル美術の現在」(2001)、「MOMASコレクション:立石大河亞のワンダーランド」(2008)、「長澤英俊展」(2009)、「清水晃/吉野辰海」(2012)、「浮遊するデザインー倉俣史朗とともに」(2013)などの展覧会に携わる。また、メルボルンで開催された「イケムラ・レイコ “けれども地平線に光あり”」(1999)や、デンマークと日本の美術家の交流プロジェクト「ブラインド・デート(2002、オデンセ市クンストハレ)/パスワード(2004、CCGA現代グラフィックアートセンター)」なども手掛けた。


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