市民美術大学 2015 田中 正之
ゲルニカ:ピカソのゲルニカをめぐって

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市民美術大学 美術講座 2015 後期
2015年6月20日
武蔵野美術大学 教授 田中 正之
ゲルニカ:ピカソのゲルニカをめぐって

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今日は、ピカソと彼の『ゲルニカ』という作品についてお話しします。その前にまず、ピカソがどのような画家だったのか簡単にお話ししたいと思います。1881年に生まれ、1973年に亡くなっています。画家であったピカソのお父さんは、自分の子どもがまだ小さい頃に描いた絵を見て、自分は息子の才能にはかなわないと思い、画家をやめたというような伝説があります。恐らくこれは伝説に過ぎず、お父さんは必ずしも売れていた画家ではありませんでしたが、スペイン各地の美術学校で素描とかを教えていました。お父さんが美術学校の先生をしていたので、ピカソは子どもの頃から絵画の英才教育を受け、徹底的にデッサンの勉強をやらされました。お父さんは画家として成功できませんでしたが、その夢を自分の息子に託す形で、息子がスペインを代表するような立派な画家になることを期待していました。
 ピカソが11歳の時に描いたデッサンが残っています。有名な『ベルヴェデーレのトルソ』という古代の彫刻をデッサンしたものですが、抜群にうまい。デッサンの教育は、日本の美術大学ではまだ行われていて、欧米の美術学校では現在はもうあまりやりません。デッサンの技術を、画家としての、絵の表現者としての出発点として位置づけるということは、今はほとんどなくなっています。ですから、ピカソが石膏のデッサンを子どもの頃からたたき込まれていたということは、古いタイプの美術教育を徹底的に受けていたということです。古いタイプの美術教育とは、各国にある国立の一番重要な美術学校を出て、アカデミーと言われるような芸術家たちの世界で画家として名を成し、国から注文を受け、例えば壁画などによる歴史画を描くということを目指すものです。ピカソに求められていたのも、そういうものだったことが、幼少期のデッサンは示していると言えます。そしてラ・コルーニャというスペインの小さな町の美術学校に入って正式な美術教育を受け始めます。この学校はピカソのお父さんが教えていたところでもあります。

ピカソ一家はその後バルセロナに引っ越し、そこの美術学校でピカソのお父さんは教え始めます。1896年、ピカソが15才の時に、自分の姉の聖体拝領を描いた絵があります。聖体拝領というのはカトリックでは、生涯の中で一番重要な儀式の一つです。一人前のキリスト教徒として、カトリックの信者としてデビューするような儀式で、ある意味宗教的な成人式のような儀式です。伝統的なスタイルによって、とても写実的で描写的な、オーソドックスなスタイルで描いたもので、これがピカソの画家としてのデビュー作と言っていいものになります。これがバルセロナの地方の展覧会に出品され、画家として初めて作品を公の場で見せることになりました。
 この後ピカソはバルセロナを離れてマドリッドに行き、国立の美術学校に進学しますが、正規の美術教育には何も学ぶところがないと、入学して1年もしないうちに退学してしまいます。そしてバルセロナに戻り、若い芸術家たちが集まっているカフェに出入りし始めます。そこで小説家志望の人、画家志望の人などと知り合い、フランスのパリでどんな新しい芸術が起きているのかという情報を得ます。当時は、バルセロナから若い芸術家がパリに行き、新しい芸術を吸収して戻ってきて作品を発表するというようなことがごく普通にあったんですね。当時のパリでは、いわゆるポスト印象派が中心でした。ですからそこで活躍していたロートレック、ゴッホ、ゴーギャンなど、セザンヌはまだ再評価されるかされないかぐらいですが、こういった画家をピカソは知ることになりす。

そして20歳の頃にバルセロナを離れて、パリに移ります。最初のうちはゴーギャンそっくりの絵、ゴッホそっくりの絵、ロートレックそっくりの絵を描いていました。そして段々とアカデミックな美術の様式を捨て、前衛的な、自分なりのスタイルを作り出していきます。それがピカソの「青の時代」と呼ばれるものです。青が基本的な色調になって、貧しい人々の暮らしを描いたものです。この頃のピカソは、画家としては全く売れてないですし、社会の周縁に追いやられているような人々に目を向けて繰り返し描いています。決して幸福に満ちた世界ではない、青色を使って打ち沈んだような世界をひたすら描くんですね。
 ピカソは次から次へスタイルを変えたことで有名ですが、「青の時代」は数年で終わり、また次のスタイルに変わります。次は「バラ色の時代」といわれています。バラ色あるいはピンク色が基本的な色になり、主にサーカスの道化師たちを描いています。サーカスや道化師というのもまた、社会の周縁にあって、社会の中心で豊かな暮らしをしていない人々とは違う存在なんですね。放浪している人、あるいはホームレスの人、身体的に障害がある人など、そういう人々の姿を描いていたのが当時のピカソでしたが、その中でもとりわけ道化師やサーカスを主題に描いていました。道化師に自分を重ね合わせ、道化師のような美術家と自分を位置づけていました。社会の周縁に追いやられて、社会から受け入れてもらえない美術家というのをイメージしていたのでしょう。この頃もちろんピカソは画家として全く無名の存在で、作品はほとんど売れることがなかった。例外的なコレクターが1〜2人ぐらいいただけです。


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