市民美術大学 2015 田中 正之
ゲルニカ:ピカソのゲルニカをめぐって

1 2 3 4 5

その後、20世紀美術の中で一番重要な画家とピカソを位置づけられるようになるきっかけとなった作品を描きます。それが1907年の『アヴィニョンの娘たち』です。西洋美術史の本を開くと、西洋絵画の歴史を変えた作品として必ず取り上げられる絵です。ピカソがなぜ20世美術の中で重要な画家として扱われているか、それは、西洋絵画の歴史をピカソが、この作品でもって変えたという評価を受けているからです。

ではなぜ『アヴィニョンの娘たち』が西洋絵画の歴史を変えたと言われているのでしょうか。それまでの西洋絵画では、絵を描くためには幾つかの約束事、ルールがありました。そのルールや約束事を教えるのが美術学校で、それを身に付けて描けるように育てるのが、美術学校や美術大学の役割でした。そういったルールや約束事を破っても絵になるということが、このピカソの絵から始まったと言われています。そのルールや約束事とは、一枚の平面的な絵であるにも関わらず、まるでその向こう側に空間が広がっているように描くということです。そのために遠近法という技術があります。遠近法をどうすれば正確に描けるのかを、かつての美術学校では教えていました。ピカソはこの絵の中で、遠近法を使いませんでした。また、人や物の立体感を表すために、陰影法という技術もありますが、それも使っていません。そして何よりもこの作品で否定されているのは、彼が小さい時に描いた石膏デッサンのように、本物そっくりに、写実的に描写していくということです。そういった技術は西洋の画家にとって必要不可欠のものであり、ピカソ自身それを完璧に身に付けていたにも関わらず、自らそれを否定します。そうやって全然違う絵画のあり方、全然違う絵画の表現がある、という表明がこの作品によってなされました。後にピカソの親友になっていくジョルジュ・ブラックという画家は、ピカソのアトリエで初めてこの作品を見たときに、「無理やりガソリンを飲まされたみたいだ」と語ったと言われています。つまり、それだけこの絵の表現が衝撃的だったということです。

『アヴィニョンの娘たち』が発表された際、どういう表現が使われているのかに関しての議論がすぐに起きました。とりわけ注目されたのが、向かって左側の二人の女性の顔、その奇妙な表現でした。アフリカの仮面などの表現を思い起こさせると言われました。その後ピカソが描いたのとそっくりのアフリカの仮面も見つけ出されたりしましたが、必ずしもピカソがそれらを模倣して描いたわけではないということも、今は分かっています。ではここでピカソは何をやったのかというと、それまでの西洋の伝統にはない新しい描き方を、アフリカの造形物に影響を受け実践したということです。写実的な、模倣的な描写とは全く違う表現がありうるということを、アフリカの彫刻から吸収していったわけです。もちろんピカソに新しい表現をもたらしたのは、アフリカの造形物だけではありませんでした。ピカソが最初にパリにやってきたときから見ていた、ゴーギャン、ゴッホ、ロートレックの作品からの影響もありますし、20世紀初頭になって、1903〜05年に大々的に、そして一気に知られるようになったセザンヌの作品の影響などもあります。そうした作品を見て、絵画における表現というものをもう一度考え直すようになったんですね。
 絵画の表現を考え直し、『アヴィニョンの娘たち』以降に制作した絵は、どんどん抽象的になっていきました。一人の人物を描く際に、その人物をメスで切るように分解していき、画面全体にガラスの割れた破片がはめられたように、細かく刻まれたもので表現されたりしています。再現的、写実的な描写がないにも関わらず、でも何かを描いてる絵になっている。そして、ピカソがそういった絵を描くことで、抽象絵画は生まれていきます。19世紀まではなかった抽象美術こそが、20世紀における一番新しい美術表現だったんですが、それを生み出すきっかけになったのがピカソであり、それもあって20世紀美術において一番重要な画家として語られるようになります。ピカソ自身は抽象絵画を一点も描いてないんですが、この後抽象絵画を探求していくオランダのモンドリアン、あるいはロシアのマレーヴィチなどは、ピカソのこういった絵を吸収していって、自分たちなりの抽象絵画を発展させていきます。ピカソが『アヴィニョンの娘たち』以降に制作していった絵画のスタイルを一般的には「キュビスム」と呼んでいます。キュビスムの発明が、ピカソを20世紀美術の代表的な作家にしているわけですが、『アヴィニョンの娘たち』はキュビスムに至るための第一歩を記した作品だと考えられていて、今ではそれには異論もあるのですが、20世紀美術の中でも重要な作品であると言われるようになっていきました。

ピカソ自身は、抽象絵画は描かず、この次の段階になると、第一次世界大戦後ですが、伝統的なスタイルに戻っていきます。写実的な、描写的な表現を壊していくギリギリまで挑戦した後、ピカソは突如として古典的、伝統的な様式に戻り、今度は古典的な様式で何が表現できるかを試みていきます。その意味では、彼はここでいったんは前衛的な作家であることをやめてしまうわけです。でもその後再び新しいアヴァンギャルド的な表現に変わっていきます。そして1920年代後半から30年代になると、「シュルレアリスムの時代」と呼ばれる作品群を制作し始めます。シュルレアリスムの運動は、1924年にスタートしますけれども、ピカソもシュルレアリスムの運動と密接に関わっていて、シュルレアリスム的な、分かりやすく言ってしまうと幻想的で、形というものが徹底的にゆがめられたような表現を取っていくようになります。ピカソは再び写実的な表現をやめ、一つ一つの造形的な要素が自立しているかのような描き方をするようになります。色彩や形を自由に使っていくんですが、決して抽象絵画は描かず、現実の世界を絵画の上に移し替えて描写していきました。

『鏡の前の少女』という1930年代の代表的な作品があります。キュビスムの一つの特徴は、複数の視点から見たものを一つの画面の中に描き出す、ということがあります。つまり人物、人の顔を描くときに、正面から見たものと横から見たものを、一つの絵の中に描いてしまうわけです。キュビスムで始めたそういった表現の仕方は、この『鏡の前の少女』にも見受けられます。複数の視点から描くということは、それまでの西洋美術の伝統では決してありえないことでした。なぜなら、遠近法があったからです。遠近法では、視点を一つに定めなくてはいけません。遠近法を捨て、それを否定するために、複数の視点が導入されることになります。それを最初に絵画の歴史で始めたのがセザンヌです。その可能性をさらに展開させたのがピカソでした。それは、それまでの絵画の歴史にはない新しい表現というだけではありませんでした。そういった表現でこそ表わされる意味もそこにはありました。例えば『鏡の前の少女』では、女性の持っている二面性が表現されています。深く考えこんで、塞ぎ込んでしまう側面と、若々しくてエネルギーに満ちあふれている側面を持つという二面性を、横顔と正面から見た顔とを並列させた二重の表現で示しているんですね。この後、ピカソは『ゲルニカ』を描いています。なので『ゲルニカ』の表現にはキュビスム的な要素も、シュルレアリスム的な要素も入っていると言うことができます。


1 2 3 4 5