市民美術大学 2015 田中 正之
ゲルニカ:ピカソのゲルニカをめぐって

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『ゲルニカ』に描かれていのはスペインの内戦、スペイン市民戦争です。1931年までスペインは王国でしたが、革命が起き国王が追放され、共和国になります。その直後は保守的な右翼的な政権でしたが、1936年の段階で左翼的な、社会主義の政権に変わります。これは人民戦線内閣と呼ばれています。そして右翼の保守的な人々が、内戦を始め、武力で左翼的政府を打倒しようとします。1936年のことです。社会主義の共和国政府と、反乱軍との間で戦争が勃発します。1937年になるとピカソの生まれた町マラガが反乱軍側の手に落ち、反乱軍側が一気にスペイン全体を押さえるような勢いになります。しかし首都マドリッドまでは押さえることができず、戦争は膠着(こうちゃく)状態に陥ります。そこで反乱軍側は、ちょっと矛先を変えて、資源や経済力を押さえる作戦に出ます。まずバスク地方を押さえようと、1937年3月終わりから「バスク作戦」をナチスドイツの全面的な協力のもとに展開します。最初にドゥランゴという町を爆撃して、それからゲルニカという町を爆撃しますが、これが国際的な大問題となります。というのは、それまでの戦争では、戦場で戦いは行われ、兵隊と兵隊が戦い、戦死するのも兵士たちでした。しかしゲルニカの爆撃からは無差別爆撃が始まり、それまでの戦争と全然違うものに変わってしまっています。つまり、それまでは攻撃を受けるのは軍隊だけでしたが、普通に町に暮らしている市民までもが爆撃されるということが、ここから始まりました。

1937年5月からパリで万国博覧会が開かれ、そこでピカソの『ゲルニカ』は初めて発表されます。万博の会場で、ピカソの『ゲルニカ』はどういうふうに見えたのか、なぜ万博会場で展示されたのかについて、お話ししていきます。
 1937年、スペインの内戦ではバスク作戦が続いていて、6月にはビルバオというバスク地方で一番重要な町が占領され、反乱軍側の領地になります。スペイン内戦は39年まで続きますが、39年にはナチスドイツがポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が始まります。39年1月にはバルセロナが陥落、ピカソの母親はバルセロナに住んでいたため、その後ピカソは母親が殺されてしまったのではないかという悪夢にずっと悩まされることになります。ちなみにスペインの反乱軍の指導者フランシス・フランコは、内戦に勝つためにナチスドイツやイタリアのムッソリーニの支援を受けますが、第二次世界大戦が始まると、徹底的に中立を守ります。スペインはもう内戦でボロボロになっていたので、国の立て直しのほうが先決ということで、第二次世界大戦には参加しない立場を取るわけです。ですからフランコ政権はファシズムでしたが、彼の政権だけが唯一のファシズム国家として第二次世界大戦後もヨーロッパに残ります。フランコが亡くなった後、スペインは王政復古をして、もう一度王国に戻って民主主義的な国に戻るんですね。

『ゲルニカ』の所有権はスペイン国家にありました。しかしピカソは、パリ万博に『ゲルニカ』を出した後、この作品をスペインに戻しませんでした。もちろん内戦のせいもありますが、フランコのファシズム政権には絶対に『ゲルニカ』は渡したくなかった。ニューヨーク近代美術館にピカソが預けるという形で、ずっと展示されていました。そしていつの日か、スペインに民主主義が回復されたその時に、スペインに『ゲルニカ』を返してくれと言い残します。スペインに民主主義が戻ったら、スペインに返還して、プラド美術館に展示してほしいというピカソの遺志の通り、その後『ゲルニカ』はスペインに返還されてプラド美術館に展示され、現在ではソフィア王妃芸術センターという現代美術館に展示されています。

ゲルニカの爆撃について、ピカソは自分の目で見たわけではなく、新聞の報道で知ります。ピカソが当時読んでいたのは『ユマニテ』という、フランス共産党が出していた新聞です。フランス共産党の新聞、日本で言えば『赤旗』のような新聞でゲルニカのニュースを大々的に扱っていました。その記事や写真を見ながら、ピカソは『ゲルニカ』を創作するためイメージを作っていったと言われています。
 『ゲルニカ』を見ていくと、燃えている建物や両腕を上げて助けを求めるかのように泣き叫んでいる女性、放心状態で歩いている女性の姿が描き出されています。この作品の奇妙な点の一つは、屋外で建物が燃えていたり、屋根瓦が描かれていたりするんですが、そこには天井があって、屋内と屋外が一つの画面の中で一つに描かれていて、屋内なのか屋外なのか分からない表現になっているところです。そして、作品が発表された当時の新聞にも書かれていますが、さらに不思議なところは、天井の明かりがある下に、ランプを突き出されている点です。二重に明かりが描かれるのは変だということなんですが、恐らくそこがピカソにとって重要なところで、二重化された光を描き出し、光の輝きを強調しているんです。つまり『ゲルニカ』という作品において一番重要なモチーフ、主題的な要素は、光と闇のコントラストなんですね。
 細かいところを見ていくと、死にかけている馬のそばに上を向いて叫び声を上げている鳥の姿が描かれていたり、折れた剣を持っている手のところには一輪の花が握られているのが描かれていて、この花もとても重要な意味を持ちます。これらの描写によって何を表現したかったのか。ピカソ自身が残した言葉があります。

「スペインの闘争は、民衆と自由に対する反動への戦いである。芸術家としての私の全生涯は、この反動と芸術の死に抗する、絶えざる闘争以外のなにものでもない。私が反動の味方だなどと一体誰が考えついたのか。反乱が起こったとき、合法的な選挙で作られた民主的なスペイン共和国政府は、プラド美術館館長に私を指名し、私はすぐにこのポストを承諾した。今制作中の、私が『ゲルニカ』と呼ぼうとする壁画や最近の作品全てにおいて、わがスペインを苦痛と死の大海に沈めた軍閥―フランコのファシズム政権―への憎悪を、私は断固として表明する」。

この時実は、ピカソはファシズム側の味方であるといううわさがパリで広まっていました。なぜそんなうわさが立ったのかは分かっていませんが、それに対するある種の応答が『ゲルニカ』でした。プラド美術館館長に使命されたというのは事実です。と言っても、パリを離れてマドリッドに戻ることはなかったので、館長としての仕事を実質的にやったわけではありませんが、当時のプラド美術館における最大の仕事は、作品の避難で、いかに戦争から作品を守るかでした。さて、今見ていただいたのが一番最初に『ゲルニカ』について語ったピカソの言葉になります。この言葉に基づいて、『ゲルニカ』をどう解釈するのかについて様々な議論が起こりました。

すでにお話ししたように、『ゲルニカ』はパリ万博で最初に発表されました。では、1937年のパリ万博はどういうもので、どういう場所に『ゲルニカ』は展示されたのでしょうか。19世紀からパリでは何度も万博が開かれていますが、エッフェル塔周辺が常に万博の主要会場になっていて、1937年のパリ万博もそうでした。第二次世界大戦の直前に行われた万博で、戦争が起こりそうだということがジワジワと伝わってくるような万博で、会場で一番目立っていたものは、メイン会場で対峙(たいじ)するように突出して巨大に作られた二つのパビリオンでした。一つはドイツ館、もう一つはソ連館です。ドイツ館の前にはナチスの旗が翻り、またそのてっぺんにはナチスを象徴する鷲(わし)の彫刻が上に置かれていました。その対面にあったのがソ連館です。ソ連館の上には、これもまたいわゆる社会主義リアリズム的表現スタイルで、ベラ・ムーヒナという女性の彫刻家が作った『労働者とコルホーズ』という、労働者を表わす男性像とコルホーズという集団農場を擬人的に表した女性像とが置かれていました。ソ連の国旗と同じように、女性像の片方の手にはハンマー、男性の手には鎌が握られています。


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