市民美術大学 2015 河﨑晃一
吉原治良「具体」を生んだ画家 近代日本美術史のモダニスト

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CCA市民美術大学 美術講座 2015
1人のアーティストを語る
2015年11月14日 甲南女子大学教授 河﨑晃一
吉原治良 「具体」を生んだ画家 近代日本美術史のモダニスト

吉原治良は、1905年、大阪の商人の家に生まれました。美術学校には行かず、初めは趣味で絵を描いていましたが、藤田嗣治との幸運な出会いがあったり、色々なことがあり、戦前の二科会の若手ホープのような存在となり、二科の抽象的な絵を描いていた人たちのグループ「九室会」を若くして率いるようになりました。戦後、具体美術協会をつくって、世界にその名を知らしめました。年齢的には、神戸出身の小磯良平などと同じ世代の画家です。彼の絵の仲間の多くは具象絵画を描いて、それなりに名前を残していますが、吉原治良や長谷川三郎、斎藤義重、そういった人たちは抽象的な方向へ進んでいきました。中でも吉原はグループをつくり、戦略的に世界に出ていきました。吉原治良は独学であるがゆえに、自分のスタイルを数年ごとぐらいにどんどん変えています。時代背景や自分自身の出来事など理由はあるんですが、最後は円、日本の伝統的な形といいますか、そういったものを絵の具で表現した画家です。今日はそういったお話をさせていただければと思います。

1905年1月1日生まれとなっていますが、実際には1904年12月28日の生まれらしいです。昔ですからお正月生まれにしてしまおうということだったようです。実家は吉原製油という、「ゴールデンサラダ油」を覚えている方がいらっしゃるかもしれませんが、植物油、家庭用のサラダ油を作っていた会社の家に生まれました。淀屋橋の交差点のど真ん中に家があり、昭和の初めに御堂筋ができる時に立ち退きになり、中之島の西寄りへ引っ越します。生粋の大阪育ちで、北野中学という名門校に通います。その後、関西学院というカトリック系へ行き、当時の商業科で学びました。

当時の関西学院がある神戸と大阪の中間点西宮、芦屋、今の神戸市東灘区という地域は、大阪から見るとちょうど西、北ぐらいの方向になる場所です。目の前が大阪湾、海岸線から1キロもないところから山になり、六甲山脈が東西に走っています。気候的にも温暖で過ごしやすい場所です。今のJR線は明治の初めにできましたが、明治の終わりから大正の初めにかけて私鉄が開通し、大阪から30〜40分ぐらいで行くことができました。今は15分くらいで行きます。住宅地としては、大阪の市街地とは比べものにならないぐらい住み心地のよい場所です。大阪は、商人の町と呼ばれるように、中心街には商人がたくさんいました。彼らが財を得て、西宮、芦屋、神戸のあたりに住んでいました。吉原の家も御多分に漏れず、大正時代の終わり頃芦屋に引っ越してきたようです。彼はまだ5年制の中学を出たばかりで、芦屋に移ってから関西学院に通います。

絵を描いていましたから、東京美術学校へ行きたいという希望は持っていたようですが、一人息子でしたから、親にしてみれば美術の学校に行かせれば、当然家業は継いでくれないと予測できたのでしょう、関西学院という商業学校へ進学するように勧めました。ただ絵をやめろとは言われなかったようです。

そしてそこで色々な出会いがあります。まずは長谷川三郎です。長谷川三郎は、山口の生まれですが神戸で育ち、芦屋の私学、甲南高校に行きました。ちょうど長谷川三郎と吉原治良は年齢も近く、長谷川三郎のほうが一つ下です。長谷川三郎もやはり実業家の家に生まれ、東京美術学校へは行かせてもらえなかった。ただ彼は東京帝国大学で美学美術史を学び、絵を描きます。実はこの2人、芦屋という狭い町の中で、20歳前ぐらいに出会っています。

そこには、上山二郎との出会いも大きく関わっています。上山は無名の画家で、二科に1回入選しただけの人です。出会ったのは1928年頃で、吉原自身「いつ出会ったのかは自分でも分からないけれども、芦屋に引っ越してから、パリ帰りの上山二郎という人に出会った」と書き残しています。上山二郎は東京の人ですが、関東大震災を機に関西に引っ越して来ます。それまではパリにいて、藤田嗣治と同じアパートに住んでいたんですね。藤田に影響を受けながら絵を学んだ人である、ということが、私が上山の展覧会を準備していた時のリサーチで分かってきました。

パリに藤田がいた時に、彼の周辺にいた何人かの日本人画家で、日本に帰ってきた人には、岡鹿之助、高野三三男、板東敏雄などがいます。日本でもあまり名前が出てこない画家たちですが、その一人が上山二郎でした。芦屋に住み、支援してくれる人がいましたので、生活面では苦労せず、家で絵を教えたりしていたようです。そこへ吉原治良と長谷川三郎が通っていました。吉原治良は上山二郎に会ったことによって絵が急速に磨かれていきました。上山は初めて師と呼べる人でした。今とは違い、インターネットで海外の事情がリアルタイムで見えてくる時代ではなかったので、有名無名に関わらず、パリ帰りの画家の生の話を聞けるというのは、若い画家にとっては吸収できる絶好のチャンスでした。吉原治良と長谷川三郎は、同じ人から情報を聞き、自分の目指す方向を見出していったと言えるわけです。

その頃描いていた絵は、魚のある静物画などです。芦屋が瀬戸内、大阪湾に面していますから、当時は今とは違って漁業が盛んで、取れた魚を魚売りの行商が売りにきていました。それを買って自分の絵の題材にしていたようです。魚のある静物画を発表したのが1928年、ちょうど吉原治良が関西学院高等部を卒業する時に開いた個展でのことです。特徴的な静物画で、俯瞰(ふかん)的に描かれています。風景と静物が一緒になっているような感じです。魚ばかり描かれた60点ほどの絵で個展を開催しました。当時の新聞でも割と好評で、本人はとても満足するんです。

もう一人、福井市郎という、やはりパリ帰りで芦屋に住んでいた画家がいました。当時としてはちょっと変わったことをする人で、1924年に自宅の庭で、屋外で絵を展示した「林間洋画展覧会」を開催しました。吉原治良がこれを見たかどうか分かりませんが、話は聞いていたであろうと推測でき、そうしたことからの影響が、後の具体につながっていったのではないかと思います。

吉原治良が大阪で個展を開き、得意になっていたその翌年、1929年に藤田が17年ぶりにパリから帰国します。昔の船ですからマルセイユから乗り、日本にはまず神戸に着いて、そして横浜へ行って東京に帰るというコースです。神戸に2日くらい停泊していたようなんですが、その時上山二郎に言われて、吉原治良は藤田を迎えに行っているんですね。なぜ上山二郎本人が一緒に迎えに行かなかったのか疑問が残るところですが、その辺はよく分かりません。吉原はバラの花を抱えて神戸港へ迎えに行き挨拶をして、前年の個展に出した魚の絵を何点かを藤田に見てもらう機会を得ます。その時に藤田から言われたのが「人のまねはいけないよ」という言葉です。吉原治良の描いた魚の絵は、上山二郎の影響をすごく受けていたんです。上山二郎自身は、パリで藤田と同じアパートに住んでいたので、藤田に影響されています。ですから、藤田自身から見ると、孫引きのような絵を見せられた、自分の絵の匂いがする絵を、初めて会う若造が描いてると感じたのでしょう。

この言葉を藤田に言われた時、吉原治良はオリジナリティの大切さを学んだと自叙伝で書いています。この辺りが吉原治良の絵を描く心構えのスタートとなったということですね。吉原の絵は、抽象画を描くようになってからも、キャンバスを最初に白の絵の具でツルツルにして下地を作っています。実はこれは藤田のやり方で、藤田は白でまず表面を作って、キャンバスの目を潰し、それから絵を描いていきました。吉原もそのまねをしていました。ただこれは保存の観点からするとよくない方法です。藤田の絵も吉原の絵も、50年近く経つと、下地の白の絵の具がバリバリに割れてきて、もう絵の画面がボロボロになってしまい、修復が大変なんです。これをやるには、保存も念頭に入れた上での方法や素材などを考える必要があったでしょう。

1929年から吉原は会社勤めを始めます。当然のことながらお父さんの会社です。そしてお父さんは、会社の工場内にアトリエを設けることを許します。絵描きにとってアトリエは一番大事で、学校へ行くよりも恐らく大事だと思うんですよね。その場所を得たというのは、吉原にしてみれば最高の場所を勝ち取ったようなものです。自分の会社ですし、社長の息子ですから誰も文句は言いません。

今津工場の一角をアトリエにしてずっと絵を描いてた時代が、1929年から38年頃までです。そこをテーマにした絵もたくさんあります。ただ「人のまねはいけないよ」と言われても、いきなりどうしていいのか吉原は分からなかったんです。そこで何をしたかというと、後に自宅から出てきたドローイングから分かるんですが、人のまねをし尽したんです。例えば吉原の好きなマックス・エルンストの一つの絵を、何枚も描く。そして油絵にするときに、まねしたものを超える絵を描きたいというような気持ちでやったようです。人が見たことないものを考えようとするのではなく、人のまねを徹底的にするところから始めたようです。

また、家が裕福でしたから、洋書を買うお金は十分あったようで、かなりの数を所有していました。その頃買ったものだけでかなりの数の洋書がありましたから、情報収集能力はすごかったと思います。当時は、海外の情報を得るには現地にいた人から話を聞くこと、そして本という二つ以外に方法がなかったわけですから。

実物の絵や作品も日本にはそんなに入ってこなかったんですが、吉原が若い頃に大きく感銘を受けた絵に、ヴァン・ゴッホの「ひまわり」という絵があります。典型的なひまわりの絵で、大正時代の終わりに芦屋に住んでいた実業家でコレクターでもあった山本顧弥太という人が持っていたものです。白樺派のパトロンで、武者小路実篤に「こういう絵がヨーロッパで出てるんだけど買いたい」と言われ、それじゃということで購入したんです。大正時代のことですから、今で言うと億単位の金額です。この「ひまわり」が大阪で開かれた、いわゆる泰西名画展には必ず出ていました。それを吉原治良だけでなく、当時の大阪の若い画家たちは見て感銘を受けます。残念ながらこの「ひまわり」は1945年の空襲で焼けてしまい現存していません。

1929年に藤田と初めて会った時、藤田は吉原をパリへ来ないかと誘っているんです。自分の影響があるけれども、画家になる素養を十分持ってるので、パリへ行って勉強したらどうだと。当然のことながら吉原のお父さんは反対します。吉原治良はその悔しさがあって、洋書を買ったりして、パリの情報を得ることに敏感になっていたんです。ちなみにその時藤田と一緒にパリへ行ったのが岡本太郎だったということです。代わりかどうか分かりませんが、岡本太郎も藤田のコネクションでパリに行ってます。

そして1933年に帰国した藤田と、4年ぶりに再会します。そしてこの時は、短期間でよくこれだけやったねと褒められ、合格点をもらいます。そして藤田は、二科展に吉原を推薦し、1934年に入選します。通常ヨーロッパから帰って来た画家は、二科展や団体展に推薦されて、何はともあれ人間関係、師弟関係の推薦で特別陳列などでデビューすることが多かったのですが、吉原治良は、そうではなく藤田の推薦で入選しました。2〜3点出して1点でも入れば十分認められたということなんですが、吉原は5点出して5点入選しています。そこには藤田の強い押しがあったんじゃないかと察することができます。とにかく1934年というのは、吉原治良の二科会デビューの年というポイントになるわけです。


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