市民美術大学 2015 河﨑晃一
吉原治良「具体」を生んだ画家 近代日本美術史のモダニスト

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その後、二科会でシュールレアリスム的な絵をずっと描き続けたかというと、ここでまた方向転換しています。時代はどんどん抽象絵画に向かっていました。日本全体で言えば、戦争に近づいていきます。美術は、昭和初期にパリへ留学した画家たちが持ち帰った印象派、フォービズム、シュールレアリスムに続く抽象絵画がはやり、多くの人が描くようになっていました。その中の一人が長谷川三郎です。流行のようにいろんなスタイルが出てきたこの時期、抽象絵画を理論的に展開していた中心人物であった長谷川三郎は、自由美術家協会をつくります。そして1939年には前衛美術を紹介する二科九室会が結成されます。二科会は日展から分かれたところですから、オーソドックスな絵が中心だったんですが、抽象を描く人たちが増えてきて、その人たちは二科展の九つ目の部屋に集められていたようです。その名前をとって九室会になりました。リーダーシップをとったのが30代前半だった吉原治良です。藤田は顧問として九室会に関わり、他にも東郷青児、斎藤義重といった人たちが集まってきました。

当時の吉原が発表した「図説」が1937年の二科展に出品されています。これもよくよく見ればバーバラ・ヘップワースなどの海外の抽象画の影響がとても強いですが、でも描き方としては独自性を求めています。長谷川三郎は、同郷で同じ人から学んだ同世代の画家である吉原治良を、自由美術家協会に引っ張ろうとしたようです。かなり説得したらしいですが、吉原は藤田の義理があるので動かなかった。それが、二科会が始まった時の吉原が旗振り役に回った理由の一つかもしれませんが、この2人が戦前の日本の抽象絵画を引っ張っていったことは間違いありません。

長谷川三郎の「蝶の軌跡」は現在、京都国立近代美術館に所蔵されていますが、これが自由美術家協会に出品した記念碑的な、大げさに言えば戦前の日本の抽象絵画の代表作と言ってもいいと思います。村井正誠に言わせれば、「長谷川三郎は雑巾の刺し子みたいな絵ができた」と。確かにそう言われてみれば、無限大という記号的な問題といったことをかなり意識した抽象画だったと思います。吉原治良の「図説」と比べても近いようで、何か傾向が違うなという作品です。ちょっと思いつきに近い、いろんなことをやってみるような抽象画がこの時代は多かったように思えます。

1940年ぐらいになると戦争の影響があって、急に抽象的な絵画が影を潜めてきます。戦争が始まってからは規制が厳しくなり、同じ芦屋市内に住んでいた長谷川三郎は、灯火管制の訓練に非協力的だったというだけで警察に引っ張られます。抽象画を描いていることで当然マークされていた吉原は、それを聞いてかなりおびえていたようです。そし絵が具象的になっていきます。彼は結核もあって、兵隊には行っていません。かといって戦争画を描いたりもしていません。1944年頃には疎開します、その時描いていた絵は具象といえども変わった作品で、紙に油絵具で描いていました。いわゆる具象的な絵でも力強さ、デッサン力は十分にあるものでした。

戦前の吉原治良をまとめてみたいと思います。大阪の裕福な商人の家に生まれて、恐らく何不自由なく育ちました。若い時の写真を見ると、スーツをきっちり着ていて、山登りの時の写真も上下白のスーツで写っています。とにかくスタイリッシュな感じだったようです。関西学院では弦月会という美術部に所属しています。今も続く伝統ある美術部で、のちの具体のメンバーにも3人ぐらい同窓生がいます。何よりも上山二郎、福井市郎という、ともに藤田嗣治と関連する画家に芦屋で知り合ったことは非常に大きい出来事でした。当然ながら長谷川三郎という友達を得たことも大きかったと思います。

長谷川三郎は、文筆家、評論家、思想家でもあった人で、昭和24〜5年頃に長谷川三郎が吉原治良のことを書いた文章が残っています。そこで長谷川は吉原に「もっと絵が下手になれ」と言っています。そして長谷川三郎は芦屋近辺の生活のことを「源氏物語のような生活だ」と表現しています。日本の普通の生活から言うと、自分たちは外国のような育ち方をしているという意味なんです。長谷川は小学校の時からイギリス人家庭教師から英語を習ったり、パリでもフランス語で相手と対等に話ができた。戦後アメリカに行き何不自由なく英語でレクチャーした人です。逆に日本の画壇からは総スカンを食ったりもしました。

吉原治良は外国に行けなかったコンプレックスの裏返しで、外国、海外、ヨーロッパというものに憧れをもって接しています。後に具体が海外に進出するのも、吉原治良がヨーロッパを意識していたことを強く伺える事実で、具体の発展にとってはよかったことです。具体の機関誌第1号には、かなりめちゃくちゃですけど英訳がついているんです。画家のグループの本で、英訳のついてるものは当時ほとんどなかったのではないでしょうか。そういった海外への意識というのも、吉原が芦屋で育ったことが大きいと思います。近くの神戸も明治時代から東南アジア、インド、ヨーロッパとの貿易が盛んで、今でもそうですが中国人、インド人やヨーロッパ人が多く居住していた町です。そして、自分のところの工場内にアトリエを持ったこと、そしてもちろん藤田との出会いは大きな出来事でした。

絵のスタイルも変化していきました。最初の魚の絵から急にシュールレアリスムみたいな、海外のものをひたすらまねた絵、そこから急に抽象に変わり、時代の流れでまた具象に戻る。割と一足飛びの変化があるんですが、戦後の同じぐらいの時間の変化は、納得がいく変化をしています。藤田の推薦ということもあって、周りから旗振り役に押し上げられ、若くして二科会抽象絵画のホープとなる。東郷青児も、藤田が日本に帰った時同じように上山二郎に言われ、神戸へ迎えに行っているんですよね。そういう意味で、二科会で人間関係を広げていったと言えます。人脈を活かしながら二科会の抽象絵画部門を引っ張る一人になっていったのが戦前の吉原治良です。

そして戦後です。昭和21年、1946年にいきなり抽象的な絵を描いて、これが二科会に出品されます。どうやらこれは何かの形を直線的に切り抜いて、順番を入れ替えて原画をつくっているようなんです。最初この絵を私が自分で見た時に、たぶん戦後10年ぐらい経った、抽象画へどんどん移行していく時期に描いたのだろうと思ったのですが、調べていくうちにこの絵が二科の絵葉書に1946年付けで出てきてびっくりしました。戦争で抑えつけられた雰囲気が溜まっていたのもしれません。ただ翌年、1947年には具象的な絵を描いています。戦争中に描いていた絵に近く、画面に筆でたたくような描き方をしています。これも藤田がやっていたような技法です。

戦後間もなくは、子ども、母子像といったものが画家たちのテーマ、モチーフとして盛んに描かれていました。御多分に漏れず吉原治良も子どもの絵をずいぶん描いていました。彼が子どもに興味を持ったのは、子どもたちの詩を集め毎月発行されていた『きりん』という詩集がきっかけです。発行人は、当時大阪の毎日新聞の新聞記者をしていた井上靖です。『きりん』の表紙を描いてくれと頼まれたのがきっかけで、後に具体のメンバーにもなった浮田要三という編集者と意気投合し、子どもの絵に興味を持ち始めます。今まで自分に経験がない、子どもなりの体験の中から絵が生まれていくことに新鮮さを感じたんだと思います。子どもの詩も同じで、自由な発想、教えられたものでないものを、いかに子どもから引き出すか、それを大事にしたのが『きりん』でした。『きりん』は昭和23年ぐらいにスタートし、昭和30年代半ばまで関西での小学校の国語の先生で、気持ちを同じくする人が副読本として学校で使っていたと聞きます。ですからかなりの売り上げがあったようですが、昭和37年に当時の文部省が副読本を一斉禁止にしたため、衰退してしまいました。要するに指導要綱にあるもの以外教えてはいけないという時代に入っていったんですね。戦後しばらくはそういうものがなく、いろんなものを学んで行こうという時代だったようです。

また、童美展という、就学前の子どもたちの絵のコンクールがあって、その展覧会が芦屋市の主催で開かれるようになり、吉原治良を始め、後の具体のメンバーがずっと審査をしていました。そしてこの頃、子どもの絵と同時にいろんな方面に興味を持ち出します。

終戦の年、吉原治良はちょうど40歳です。40代半ばでモダンアートですとか、そういったものを解説できる人は、関西には吉原治良以外にいなかった。ですから新聞で、ヨーロッパからの展覧会の記事を書いたりしたりしています。また、舞台装置も手がけています。田中千代という、昭和30年代、香淳皇后陛下の衣裳の相談役をしていたデザイナーがいます。東京の人ですが、芦屋で洋裁学校をつくりました。戦後アメリカへ留学し、帰国後、恐らく日本で初めてアメリカのモデルを使ったファッションショーを大阪で開催し、大センセーションを巻き起しました。その舞台装置を吉原が手がけ、以後ずっと吉原が手伝っています。またその頃吉原が感銘を受けたのは、抽象的な書の表現の世界です。京都に墨人会というグループがあって、そこに上田桑鳩という墨象系の人がいました。1935年頃から墨象というのが出だして、字を崩していった墨の大きな作品、普通の軸装にするような縦長の紙ではなくて、大きな紙に書いていく、前衛的な書道です。「上」とか「貧」とか漢字一字で書く井上有一も、その流れをくむ人です。そことの結びつきが強くなっていって、墨人会がそういう人を対象に雑誌『墨美』を出していて、そこに吉原が投稿したりしていました。長谷川三郎も『墨美』にずいぶん投稿して、同じ墨による抽象に興味を持っていました。

西宮にある海清寺という禅寺の明治時代の南天棒というお坊さんが書いた襖(ふすま)文字があります。吉原は、たまたま知り合いのお葬式があってそのお寺へ行き、読経の本堂のこの襖絵を見て、大変感銘を受けたようです。墨人会とのつながりを通し、吉原治良も、そして長谷川三郎も、抽象的な表現ということで書道の世界に影響を与えて、書道家たちも美術の歴史に興味を持つようになります。またこの頃、海外でも日本の墨書に興味を持った画家が出てきて、特にアメリカの抽象表現主義の画家や、フランスの抽象的な表現をしている画家なども、日本の書に興味を持つようになります。

ただ大きな問題は、形から入る画家・美術家と、字から入る書家という、決定的な違いがあることです。最後は平行線で、絶対交わることがない。画家が字をもとにして書くと、意味がありすぎて抽象にならない。書家がいきなりペインティングを始めると、やはり造形的な勉強の意識が少ないから、絵にはならない。そういうことがあって、結局お互いに離れていきます。吉原治良は、圧倒的な力強さで字を書いていくことで生まれる迫力、そのインパクトにひかれたのだと思います。

当時の吉原のドローイングは、簡略化されて線になっていっています。母子像が、鳥、群衆になり、だんだん線に近くなって、やがて完全な線になっていく。この辺から線的な抽象絵画の時代になっていきます。1953年頃、具体の直前です。


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