市民美術大学 2015 河﨑晃一
吉原治良「具体」を生んだ画家 近代日本美術史のモダニスト

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吉原治良は終戦直後は独特な具象画を描いていましたが、その傍ら、自宅で近所の人を集めて美術教室をしていました。また市民講座で抽象絵画の講師として呼ばれたりしています。そうしたところに通っていた何人かが、後に具体のメンバーになっています。

そして1954年、具体美術協会が創立します。具体が始まってからは、若手が自分の絵を見せにきても、イエス、ノーしか言わなかったようです。「ここをこうしたらもっとよくなる」というのが一般的な指導ですよね、ところが吉原治良は、若い人が集まってきても「うん、いいな」と言えばそれでOKだし、気に入らない絵はそっぽ向いたままで、何も言いませんでした。いったん首をそむけられたら片づけるまで絶対に見せに来た若手の顔を見なかったということですから、見せるほうも恐る恐るだったようです。

昭和20年代に吉原治良の元に集まって、研究会と称するデッサンを始めたりした人たちがいて、その中で具体のメンバーになった人というのは、よほど吉原治良のお気に入りというか、吉原治良が認めた画家たちではないかと思います。年齢的には吉原と10〜20歳離れている世代ですね。親子までいかないけれども、それに近いぐらいの年齢差がある人たちです。神戸を中心に活躍していた人や学生、美術教育を受けたけれども、自分でどうするか考えていた人たちなど、17人が集まりました。その時に吉原は、「人のまねをするな、今まで見たことのない絵を描け」とメンバーに言います。藤田に言われた「人のまねはいけないよ」が吉原治良の言葉となって出てくるんですね。藤田の言葉が吉原治良の言葉となって、次の世代に引き継がれた瞬間が、この1954年なんです。自分が20代の時に藤田に言われたこの言葉が、よっぽどショックだったんでしょう。

具体はある意味、一つの吉原の作品といってもいいものです。出品作は全て吉原のフィルター、目を通ってましたから。団体展ですと通常は何人かの審査員がいて、多数決で入選を決めますが、具体は吉原が「イエス」と言ったら全部OK、「ノー」と言ったら全部ダメという世界ですから、カリスマ的な大ボスですね。

まず最初に彼がやったのは『具体』という雑誌をつくること、それから芦屋公園を使った野外での展覧会です。福井市郎の「林間洋画展」の影響も少なからずあると思いますが、野外で見たことのないものを作ろうという展覧会でした。それを見た小原流という華道の家元から「こういうことをやるんだったら東京の小原会館を使ってもらっていいよ」と言ってもらい、野外の展覧会が1955年7月にあったんですが、10月には東京の小原会館で第1回具体美術展が行われました。

最初の1〜2年の具体の展覧会には、歴史的に見ても、世界的に見ても、時代を先んじた作品が何点も出品されています。白髪一雄の「泥に挑む」は、ダンプカーで泥をいっぱい持ってきて、その中で暴れ回るというもので、映像も残っています。翌年56年に野外でやった展覧会は、田中敦子の「電気服」や村上三郎の「作品:空」などがでていました。第2回の具体の展覧会は、小原会館で行われた、公開制作がありました。その中に白髪が足で描いていく絵があったんですが、今や白髪一雄の足の絵は世界の美術館やコレクターの注目の的です。またパフォーマンスとして有名なものには村上三郎の「通過」や、絵の具が入った瓶を投げる嶋本昭三の作品などがありました。

村上三郎の「通過」は、21枚の紙を破って走り抜けるというパフォーマンスです。これは、展覧会で何か変わったことをやりたいと村上が部屋で考えていた時、当時2〜3才だった息子さんが、お父さんと遊んで欲しくて、隣の部屋から襖を破って突っ込んできたそうで、そこから発想を得たそうです。「通過」は、1994年ポンピドゥー・センターで、具体の展覧会ではなかったんですが、「限界を超えて」という展覧会でもパフォーマンスが行われました。その後ポンピドゥーから、通った後の破れた紙を寄贈してほしいと言われ、今は、ポンピドゥー・センターが所蔵して、何度か展示されているようです。94年ですから、やりだして20年以上経ってから、世界の最高峰の現代美術館で収蔵されたということで、自分のやってきたことは間違いじゃなかったと村上は喜びます。でもその導きには、吉原治良の目があったわけですね。若手のメンバーはボスである吉原治良を「うん」と言わすために、色々考えたわけです。

50年代終わりから60年代初め頃、吉原は若手に押されて完全にスランプに陥ります。嶋本昭三、白髪一雄、村上三郎、元永定正など、当時活躍していた若手メンバーをアトリエに集め、「どうやったら君たちみたいに描けるんだ? あなたたち若手は私が判断するだけで絵が完成なんだけど、じゃあ自分はどうしたらいい? 誰が判断してくれるんだ」と聞いたそうです。そこで村上三郎さんが「そんなの酒飲んで一晩描いたらすぐできますよ」と言ったところ、あくる日呼びつけられて「できなかったやないか!」とえらく怒られたと聞きます。そしてアトリエにダルマの瓶が一本転がっていたと。言われた通りやる、純粋な人だったんですが、それができなかったからまた呼んで怒るというのも、傍から見れば真剣というか、しかし当然本人は苦しいスランプの時期だったようです。

その直前、1956年に具体美術宣言というのを「芸術新潮」に吉原が書いています。具体が始まって2年ほど経ってからのマニフェストですね。ご承知のように普通、マニフェストというのは、始まる時に宣言するものですが、具体の場合は始まってから出しています。内容を見ると、半分は第2回具体展の写真が掲載されていて、いわゆる展覧会記事で、それを吉原治良に書いてくれと頼んだんだと思います。前半の文章の中で、具体のこれまでやってきているのは、物質を大切にしていくこと、物質というものが絵を描いていくということ、それが作品を作る上で大切であることに触れ、「物質と精神が握手をしている」という名言を書いています。つまり吉原治良にとっての具体は、初めてここで論理的に成立するんです。それまでは手探り状態だったということです。ですから当然彼自身もその後追いをしていくわけです。つまり、56年に初めて吉原治良は、具体というものに責任をもった肉付けが出来たということです。

若手メンバーは舞台で発表するようになります。田中敦子「電気服」や白髪一雄「超現代三番叟」という古典のダンスなど、ますます吉原から離れていくような活動を始めます。舞台や野外での展示など、若手の白髪、嶋本のほうがどんどん先へ行く感じでした。そういった表現が、世界的に見てもいち早く行われていたんです。

具体にとって大きな出来事が、フランスの若手評論家ミシェル・タピエに取り上げられたことです。ミシェル・タピエは貴族の出で、ロートレックという貴族の画家の遠縁にあたる人です。戦中の1940年代からアンフォルメルというものを提唱していった。非形象概念、形のない絵ですね。ミシェル・タピエが具体を知ったのは、まさしく具体の海外戦略に引っかかったようなものです。具体のメンバーに堂本尚郎という人がいました。堂本印象という京都の日本画家の系列の人です。彼がパリへ留学していた時に、吉原は具体の活動を知らせたんです。堂本は現地のアンフォルメルの運動を肌で感じていて、日本にもこういうのがあるよとミシェル・タピエに具体のことを教えたんです。すると、タピエは実物を見たいと1957年9月に来日、その後も度々来日します。そしてヨーロッパなどへも作品が送られ、海外でも具体の作品が展覧会で紹介されるようになります。

そして1962年、吉原はピナコテカという美術館を、吉原製油の穀物倉庫だったところを改装してつくります。今でこそ倉庫を改装した美術館や店など色々ありますけど、それをこの時代に吉原はやっていたんですね。具体美術の常設展示室にしていました。これも吉原治良にとっての大きな決断、出来事です。

ここで言えるのは、吉原治良は画家であり、会社のあと取りであり、もう当時は社長であり、具体のリーダーであり、美術館を所有し、海外の作家と交流し作品を買っているコレクターであった。そして具体の展覧会や活動の発表の場をプロデュースするプロデューサーでもあった。ここまで六拍子そろった人は、世界中探してもそうはいないと思います。

ピナコテカは、具体だけではなく、吉原のコレクションも展示していました。そして当時の日本の現代美術を紹介できる、日本で唯一の常設美術館でした。ですから、日本の現代美術を見ようと、国内外から様々な人がやってきました。岡本太郎、イサム・ノグチ、サム・フランシス、ジョン・ケージ、ロバート・ラウシェンバーグ、ポール・ジェンキンスと奥さんのアリス・ウェーバー、クレメンツ・グリーンバーグ、丹下健三など、などが訪れています。ジェンキンスはピナコテカをアトリエにして、日本に来てから制作して展覧会をやっています。今ではよくあることですが、当時としては画期的ですよね。吉原は、自分の作品では悩みながらも、グタイピナコテカという美術館をつくり、日本に来る欧米のアーティストや専門家が必ず立ち寄る場を提供したんですね。

1970年の大阪万博で具体は展示をしています。大阪万博というのは東京オリンピックに続く日本の戦後復興のシンボル的なもの、それも関西で行われるということで、商業都市大阪の起死回生の最大の催しだったわけです。堺屋太一さんがプロデュースし、大阪の企業はほとんど全部参加しました。具体はみどり館で展示をし、ここでも吉原治良はプロデューサーでした。岡本太郎の太陽の塔の前のお祭り広場で、3日間、「具体美術まつり」という一大パフォーマンスを繰り広げます。バルーンの作品や、吉田稔郎さん泡の作品など、お祭り広場を縦横無尽に具体作品が暴れまわりました。


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