市民美術大学 2015 河﨑晃一
吉原治良「具体」を生んだ画家 近代日本美術史のモダニスト

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吉原の作品として代表される円についてお話しします。吉原の円は、書としての円ではなくて、ペインティングとしての円を描いたと言われます。大きさに象徴されるんですが、一見、一瞬で描いたように見えますけれども、実はそうではなく、エッジのガタガタをつくっていくことにとても気を使っていたようです。吉原治良は円の作品に到達してから「長い間苦労したけれども円ばかり最近描いてる、楽になった」と書いてます。でも実は彼自身が円を意識する前から、作品には円が出て来てるんです。1954年の作品を見ると、既に円に到達しているんですが、彼自身自覚がなかったんだと思うんですね。私もその作品を見て、55年の絵なんだとびっくりしました。1962年のピナコテカのマークにもなっている、グタイのGマークがありましたが、これも明らかに円を彷彿(ほうふつ)とさせる形です。フォルムは明らかに円を意識して描いている、でもスムースな円ではない。この頃からいわゆる不定形のような円が出てきます。流れるところとか、絵の具がたれたように見えるところとかは、多分細かく、意志的に描いたんじゃないかと思います。65年ぐらいになってやっと、明快な円になってきます。このときは既に油絵具ではなくて、出てきたばかりのアクリル絵の具を使っています。商標でターナーという画材メーカーが出してるネオカラー、ポスターカラーより上等なもので、黒とか赤のつや消しになる絵の具を使ってるんですが、マットな質感をとても気に入っていたそうです。

1965年の東京での16回目の具体展のことです。具体のメンバーに言わせると、この時、16回目の具体展にして初めて、吉原治良が「自分の絵はここに置く」と、場所を決めたそうです。それまでは、自分の作品は絶対に表立ったメインのところには展示せず、若手が中心の作品をメインにしていた。これは、スランプから脱した自信作だったと考えられます。初めて「自分の絵をここに置きたい」と言われて、みんなホッとしたそうです。吉原がスランプに陥っていることは若いメンバーにとってもつらかったようです。

東京画廊で個展をやったときの写真を見ると、吉原治良の隣には斎藤義重も写っています。東京画廊の人に言わすと、会社社長で車を乗りつけて、運転手に車を待たせながら東京画廊に立ち寄る画家と、まだ多摩美の先生もしてない頃の斎藤義重がどうしてあんなに仲良く話してるんだろうと不思議に思っていたということですが、吉原治良というのは具体のリーダーでしたし、斎藤義重はのちに多摩美の教授になって、もの派という若手の人たちを育てた。この2人は、日本の今の美術がある、非常に大きな役割を果たした西と東の巨匠と言っていいと思います。

やがて円の作風は、タイポグラフィー的な作品に変わってきます。いきなり大きな画面に描くわけではなく、スケッチブックには幾つも限りない円のドローイングが残っています。吉原治良は1972年1月末、ちょうど万博の後、イベントをオランダでやりたいと向こうから呼びかけられ、打ち合せの電話をしている最中にクモ膜下出血で倒れたといいます。10日ほど寝たきりになって亡くなられました。最後のアトリエのイーゼルに掛っていた作品からも、もちろん未完成ですが、タイポグラフィー的な方向へ作品がシフトしていったことが分かります。

最後に、吉原治良の今日的評価について少しお話ししたいと思います。吉原治良は、藤田嗣治との出会いによって画家としての方向性を見出し、そして具体という、彼にとっては最大の作品をつくりあげたアーティストです。日本の画家ではとても珍らしい存在です。常に海外を意識して活動し、それが今海外で具体が盛んに取り上げられるようになった一因ともいえます。

吉原治良の個人の作品に関しては、1996〜97年頃に、ご遺族の意向で大阪市に、一部有償ですが、ほとんど全て寄付されています。油絵は700点ぐらいあります。当時そのことに私も関わりまして、手元に残しておかれたほうがいいんじゃないですかとお声を掛けたんです。なぜかといいますと、美術館は1人のアーティストの作品を700点所有していても、一度には展示できません。見せるものも決まってきてしまう。でも吉原家は大阪に寄付し、芦屋の美術館にも100点ほどいただきました。こういうこともあって、吉原個人の作品はあまりマーケットには出てきません。一方で白髪一雄や田中敦子の作品は、マーケットにたくさん出てきますので、海外でも見る機会が多いんです。ですから、吉原治良が具体のリーダーであることと、彼が円を描いていたことは国際的にも認知されているのですが、今日お話ししたようなこともあまり伝わっていないのが現状です。1人のアーティストの作品全てを、一つの美術館に寄付するというのも、善し悪しがあるということでしょう。大阪は、やっと今美術館ができようとしているところですから、これからの仕事になると思います。やっと今、世界的に吉原個人のリサーチが始まったところです。

少し前までは、日本の戦前戦後の美術史では、具体は隠れた存在でした、日本の近代洋画といえば安井曾太郎、梅原龍三郎、小磯良平というようなラインが主流で美術館で収集されたりしていました。それが今、戦後の具体、もの派、それから実験工房といったアーティストたちの動きが、特に海外から注目され始めました。私たちは感じなくても、日本というものを背負った印象を受け、海外の人たちはそこに良さを見つけるのがうまいですよね。ですから作品も海外で展示される機会が増え、ニューヨーク近代美術館やロンドンのテート・モダンなどが具体の作品を収集しているんですね。

日本から作品が流出していくと嘆く学芸員もいますが、実は日本の美術館も具体の作品をたくさん持っています。ただ、やはり難解だということで、なかなか見せにくいところがあります。海外にいくと、まさしく見たことのない絵だ、という形で評価される。また欧米の60年代以降というのは、あまり活発な動きがないこともあり、日本だけでなく、今は韓国の60年代も評価されつつあると聞いています。

美術というのは、作家が亡くなってから50年ぐらい経たないときちんと評価されないと言われていましたが、吉原の場合その通りになっているなという印象です。具体の展覧会を芦屋の美術館にいた時に何度か企画しましたが、誰の作品を並べても、スーッと一本横に目線がきれいに通るんですね。抽象で訳が分からないと言われるけれども、でもスーッと気持ちよく通るものがあるということは、やはりそこには吉原治良のフィルターがあるということなんだなと思います。


河﨑晃一/かわさき こういち
1952年、兵庫県芦屋市生まれ。甲南大学経済学部卒業。78年から染色による美術作品を発表。74年から『画論長谷川三郎』(1977)の出版のための調査に関わる。89年芦屋市立美術博物館の開館にたずさわり、90〜06年学芸課長。その間、具体美術協会の展覧会、調査、資料集の発行をはじめ小出楢重(1991)、吉原治良(1992)、阪神間モダニズム(1997)など地域に根ざした企画、調査を行った。06〜12年兵庫県立美術館で常設展リーダー、館長補佐を務めた。13年から甲南女子大学文学部メディア表現学科教授。93年のベネチア・ビエンナーレをはじめ、最近では、アメリカ、テキサス州ダラス美術館で開催された「白髪一雄/元永定正展」(2015)を企画、多くの具体の海外展にたずさわる。


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