市民美術大学 2015 野口 剛
尾形光琳 近世京都のデザイナー

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CCA市民美術大学 美術講座 2015
1人のアーティストを語る
2015年11月28日 根津美術館 学芸第二課長 野口 剛
尾形光琳 近世京都のデザイナー

国宝というのは、ご存知の通り、国が重要だと考える文化財、すなわち重要文化財の中でも特に重要なものです。国宝は現在1000点ちょっとあります。意外と多いと思われるかもしれません。一方、作品が国宝に指定されている江戸時代の「画家」と点数を挙げると、俵屋宗達が3点、久隅守景が1点、円山応挙が1点、池大雅が3点、与謝蕪村が2点。大雅と蕪村のそれぞれ1点は二人の合作です。それから浦上玉堂が1点、渡辺崋山が1点、そして今日の主人公・尾形光琳が3点です。つまり、1000点ある国宝のうち、江戸時代の画家の指定件数は合計15点にすぎません。しかしその中で、宗達、光琳、大雅がそれぞれ3点というのは、際立っていると言えるでしょう。

そんな尾形光琳の国宝は、一つは、私の勤めております根津美術館に所蔵される《燕子花図屏風》、この作品の魅力はまた後ほどお話しします。そしてMOA美術館の《紅白梅図屏風》です。画面の真ん中に暗く輝く水流があって、右側に紅梅、左側に白梅が対比される作品です。それから《八橋蒔絵螺鈿硯箱》。興味深いのは、これが絵画ではなく、工芸作品である点です。光琳は、絵も描いていますが、工芸品も手がけ、しかも国宝に指定されるぐらい立派なものをつくっている。他の画家とはちょっと違ったところです。光琳を単に画家と言ってしまうのははばかれます。画家という言葉ではおさまらないような光琳の姿が、こういう作品に端的に現れています。

光琳の絵画と工芸の枠を超えた横断的な活動を、今日は「デザイナー」という言葉で表現してみます。光琳を、本講座のテーマであり、現代的な概念である「アーティスト」として定義付けてゆくことも不可能ではないと思っているのですが、それよりも、器物の形状に応じた問題解決的とも言えるような制作手法や、マーケットやユーザーに対して意識的であるという点も含め、今日のいわゆる「デザイナー」という言葉が、よりしっくり来るように感じます。

「デザイナー光琳」はどんなところから生まれてきて、どんな営みを行い、どんな風に作品をつくったのか。まずは、光琳の人となりについてお話しさせていただきます。

尾形光琳の生家は雁金屋という高級な呉服商でした。雁金屋は、曽祖父・道柏の時に始まりました。道柏は、織田信長の家臣で、最期は信長に討たれてしまう戦国武将・浅野長政の家来と伝えられ、恐らくその縁から、長政の娘である淀君や徳川秀忠夫人にひいきにされたようです。淀君は豊臣秀吉の側室ですね。徳川秀忠は二代将軍、その夫人が長政の娘でした。数年前に大河ドラマ『江』がありましたね、あの江(ごう)、お江与(えよ)の方が徳川秀忠夫人です。やがて光琳の父・宗謙の時代には、東福門院の愛顧を受けるようになります。東福門院というのは秀忠とお江与の方の間に生まれた娘で、後水尾天皇の中宮になった和子のこと。光琳の生家・雁金屋は、位の高い女性たちを顧客とする呉服商だったのです。

呉服、つまり着物は、今でもそうですけど、一人の手でできるものではありません。糸を紡いで、それを布にして染める、あるいは糸を織って織物をつくる、さらにそこに刺繍(ししゅう)などの装飾をほどこす。つくられた布を裁断して着物に仕立てる。当然、一連の作業の出発点には仕上がりを想定したデザインがあり、また作業全体を監督する立場の人も必要です。着物というのは、様々な段階を経て作られていきます。そこには複数の工程があり、工程ごとの職人が必要になります。光琳の家は着物、すなわち染織という工芸的な製品をつくる工房、職人集団を抱えた「ものづくり」の現場だったということです。さらに雁金屋は、製品を作るだけでなく、高貴な女性たちを中心に販売もする、要するに商人の家でもありました。光琳は高貴な人々が身にまとう美しい着物に囲まれて育ったわけですが、それは、職人がつくった製品を販売する環境でもあったのです。このことが、やがて光琳自ら、恐らく時に職人の手を借りて様々な作品を作り、そしてそれらを売って生計を立てるところに結びついてくる。自分のビジネス・モデルが、生家に備わっていたと言えるのです。

もう一つ尾形家の関わりで重要なのは、曽祖父・道柏の妻が本阿弥光悦の姉だったということです。本阿弥光悦は、もともとは刀の拭いや研ぎ、鑑定などを本職としていた人ですが、一方で書に秀で、また蒔絵や焼き物など様々な分野の作品づくりに携わった、江戸初期の京都を代表する総合的な芸術家=アーティストです。光悦も、光琳にとって重要なモデルになり得たと考えられますが、そういう人の姉が、要するに曽祖母だったんですね。さらに、俵屋宗達も本阿弥家の縁戚であったという説がある。だとするなら光琳、光悦、そして宗達は縁戚関係にあったということになります。

俵屋宗達が描いた下絵のうえに本阿弥光悦が書を書いた《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》という作品があります。金銀泥で、鶴が憩いをしているところから飛び立って、やがて降りてくる様子を描いた長い巻物に、和歌が散らし書きされた作品です。光悦と宗達による素晴らしいコラボレーションです。また、光悦は工芸品の制作にも携わったようです。盛り上がったふたに鉛の板をおいた、大胆な造形の不思議な形をした硯箱や、楽茶碗などが、光悦の作品と伝えられています。恐らくこういったものを光悦は企画し、あるいは職人に作らせました。繰り返す通り、光琳は絵だけでなく、様々な工芸品にデザインを提供していきますが、そうした先例として、本阿弥光悦が存在していたということです。

光琳の父もまた重要な存在です。雁金屋という尾形家の家職を継いだ人ですが、同時に風流人で、絵も描き、また能もたしなむ人でした。芸術的な父の資質が光琳、弟の陶芸家・乾山に引き継がれたんですね。

その父は、光琳が30歳の時に亡くなります。尾形家は当然裕福で、光琳は莫大な遺産を相続します。光琳は次男で、兄と弟がいる三人兄弟でした。弟、つまり三男がのちに陶芸家となる乾山です。光琳は富裕な京都の呉服商の次男坊としてのんきに暮らします。20代はほとんど遊び暮らし、30歳になって莫大な遺産を相続するものの、それも遊蕩(ゆうとう)に使い果たしていきます。挙句の果てには借金をして、次第にその借金の返済にも困り、追い込まれていきます。

32歳頃から、放蕩(ほうとう)生活のかたわら、公家の二条家に出入りし始めます。光琳は高位の女性たちを対象とする呉服商の生まれだったことから、やがて公家との関係も生まれて交友を始めるのです。光琳作品が有する貴族的とも言える洗練は、こうしたところにも一つの源を持っているのでしょう。さてその一方で、相変わらず遊んでお金を使い果たし、ついに37歳の時には《光悦鹿硯箱》や《信楽水指》を質入れしてしまいます。さらに翌年には《宗達勝手屏風》という、宗達が描いた屏風を売却してしまいます。勝手屏風というのは、お勝手で使う、2枚折のコンパクトな屏風です。相当お金に困っていたことがうかがえます。こうした品々を質入れしたり売り払ったりしている事実は、光琳にとって不名誉なことですが、重要なのはここから、ゆかりのある光悦や宗達の作品が尾形家に伝わり、それらが光琳の身近に存在していたことが分かる点です。光琳は幼い頃からこうした作品に囲まれ、それらの造形性が身に染み付いていたわけです。これは注目すべき事実で、光琳の作品を考える際には、こうした尾形家に蓄えられてきた、いわば「文化遺産」も考慮しなければならないと思います。

ともあれ、尾形光琳は59歳で亡くなりますから、38歳の頃にそういった状態だったということは、もう人生の半分以上を遊んで暮らしていたということになります。だいたいこの頃から、「どうもこのままではまずい、遊んでばかりでは生活が成り立たない、お金になることを何かしなきゃいけない」と思い始めたらしく、30歳半ばぐらいからやり始めたのが絵であり、工芸品のデザインだったんですね。


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