市民美術大学 2015 野口 剛
尾形光琳 近世京都のデザイナー

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ここで、資料を一つ紹介します。光琳が書いた宛名不明の手紙です。現代語訳します。

「この度はあなた様のお世話でお隣様から金子を頂戴できましたこと、たいへんありがたく存じます。お礼に、わたくしが所持しています印籠をご所望により進上いたします。なかなか出来のよいもので、秘蔵しておりましたが、あなた様のことゆえ差し上げることにいたします。
さて、要件ですが、長重硯箱を本日お目にかけます。もしお気に入りになられましたら、お取り上げください。お買い上げいただけそうな方と相談なさって、よろしくお頼み申し上げます。
 閏二月二十三日。
 追伸 長崎に下したいと申しておりました屏風のことも、まずは長崎へ模様を遣わすのがよいとお隣様から言われましたので、それが出来たらお目にかけますと申し上げました。これにつきましても、よろしくお頼み申し上げます。」

この手紙から色々なことが分かります。ここには、印籠とか硯箱といった、恐らく漆で作った工芸品と、屏風、すなわち絵の両方が出てきます。印籠や硯箱に関しては、すでにお金にしている気配があります。一方の屏風は、これから売りに出したいという様子がうかがえます。それと、長崎という地名も出てきます。長崎といえば九州の長崎を想像しますが、この手紙における長崎は恐らくそうではないと考えます。九州ではなく、当時、江戸にあった霊岸島の長崎町ではないかと思います。現在の東京都中央区新川1〜2丁目付近です。埋め立て地で、上方、すなわち京都や大坂から廻船で江戸に運ばれてきた製品、いわゆる「下りもの」が集積する場所でした。霊岸島長崎町には当時、「唐物屋」と呼ばれる人たちが集まっていました。唐物とは本来、中国からの渡来品の総称ですが、そうした中国から渡来した文物を主にして貴重な茶道具や陶磁器、古い書画などの売買や斡旋を行うのが唐物屋です。元々は京都、上方を中心に活躍していましたが、やがて江戸に進出し、長崎町に集まって住むようになりました。江戸の長崎町は、美術品を商いする人たちが集まっていた所なのです。

つまり尾形光琳は、蒔絵や屏風の制作を志して間もなく、自分の商品を、京都に住んでいながら江戸で販売したいと思うようになったということです。しかもそこでは唐物屋という美術品の仲介業者、ブローカーが機能した。光琳は、上方と江戸を結ぶ美術品の流通ルートに積極的に乗っかっていったのです。それは恐らく、当時のいわばコンテンポラリー・アートの売り方としては新しい手法だったのではないかと思われます。

しかも「閏二月二十三日」という日付から、この手紙が書かれたのは元禄10年、つまり1697年、光琳40歳の頃と目されます。お金に困り、家にあったものを売り払った末に制作を始めた頃、光琳がまだ駆け出しの頃です。光琳がいつ絵を描き始めたのか、正確には分かりません。だいたい30代半ばだと思います。光琳が絵を描いたということが初めて記録に出てくるのは38歳。それから間もなく、江戸に向けて商売しようとしているのです。ちょっと驚かされる展開の早さではないでしょうか。ここには、商家に育って培われた光琳の商才も見えています。
 
今でこそ光琳は江戸時代を代表する画家、アーティストとして知られていますが、ただ制作だけをしていたのではなかったことが、この手紙から分かります。自分の作ったものを売りたいという一生懸命さがこの手紙に見えています。そして、江戸で屏風を売りたいと言っています。どうやって売るかというと、「お隣様」から長崎に「模様を遣わすのがいい」とアドバイスされています。お隣様というのは、たぶん近くに住んでいた光琳のパトロンの一人だと想像されます。「模様」というのは恐らく小さな下絵、つまり商品見本です。いきなり屏風を送りつけても売れるかどうか分からないから、まずはどんな屏風なのか簡単な図柄を描いた下絵のようなものを送ったんだと思います。

商品見本を江戸に送るというのは二つ意味があります。一つは「プロモーション」、売り込みですね。物を売りたいから見本を送って、気に入ってもらえたら屏風を描いて江戸に送る。もう一つは、どんなものだったら売れるのかを探る「マーケティング」です。つまり光琳は売れるもの、売れる屏風はどんなものなのか探ろうとしているんです。江戸の人々の購買意欲を促す販売促進とともに、江戸の趣味を知る市場調査の意味もあったのではないでしょうか。

模様という言葉は、今と同様、江戸時代にも、ものの表面を飾るデザインとか、意匠とか、そんな意味がありました。この場合は、古くからある「絵様」という言葉との関わりも考えなければいけないのですが、ここでは模様という用語に注目しておきたいと思います。

光琳が生きた時代は300年前、1700年代初頭で、徳川家康が幕府を開いて100年ぐらい経った頃です。新興都市としての江戸が成熟しつつあった時期です。そこで自分の作ったものを買ってもらうには江戸の消費者、鑑賞者の目を引くものでなくてはいけません。しかも小さな下絵だけで判断してもらう必要がある。当然言葉の助けを借りず、視覚的訴求力があるような、単純で分かりやすいしゃれたデザインが求められたのではないかとも想像します。そういったことが「模様」という言葉に託されているのではないでしょうか。模様、すなわちデザインを屏風に表す、模様を屏風に適用していくというのは、光琳の絵を考える際に非常に重要なものではないかと思います。

江戸初期以来の光悦、宗達の文化遺産を受け継ぎながら、30歳代になって画家あるいは調度品のデザイナーを志した光琳が、最初に到達したのが《燕子花図屏風》という作品です。44歳のときに「法橋」という画家などに与えられる位を得て間もなくの時期に制作されたと考えられています。

30歳代半ばまで遊び暮らし、それから絵を描き始め、40歳頃には一生懸命、屏風の売り込みをしていた光琳が、44歳頃にいきなりもうこんな絵を描いているのですからすごいですよね。光琳は画家としてのスタートが遅かったにもかかわらず、一気に画家としての成熟を見せます。そこにどんな秘密があるのかが、光琳研究のうえで頭を悩ませるところですが、ここで幾つかの説をご紹介したいと思います。

《燕子花図屏風》は、総金地の六曲一双屏風、6枚のパネルからなる屏風が左右2点で一組になっています。描かれているのは燕子花という植物のみで、色もとてもシンプルです。花の青と葉っぱの緑、たった2色を金色に輝く金地にレイアウトしています。でも圧倒的な魅力がある。端的に言うと、絵というよりデザインですよね。文字通り「模様」みたいなんです。ごくごくシンプルな模様で、向かって右の画面では、燕子花の根っこの部分から花の部分まで全体が納められて、だいたい水平に描かれています。一方、左の画面では、左上から右下にかけての対角線に沿って燕子花が配されている。シンプルではありますが完璧な模様が、右と左の画面で絶妙に対比されています。しかも、それぞれの画面には、同じ花群のパターンが、まるで版画のように繰り返されている部分があります。そうした同型反復をも内包しながら、単一モティーフがリズミカルに展開する。そうして色と形が、大画面に充足しているのです。

この作品の発想源については様々な考えが出されていますが、代表的なものとして、『伊勢物語』の一節に基づいているのではないか、というのがあります。『伊勢物語』は10世紀、平安時代の中頃に成立した、在原業平の歌を中心とする歌物語です。その一節の第9段に「東下り」というのがあります。昔都に住んでいたある男が、自分の身は用がないものとみなして、京を出て、数人の友とともに東国に向かう。その途中で三河国、八橋という所にいたった。そこには燕子花が面白く咲いており、「かきつばた」という五文字を句の上に据えて、旅の心を詠めと言われた。そこで「から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」と詠むと、それを聞いていたみんなは乾飯の上に涙をこぼした、という内容です。「かきつばた」の五文字を句の上に据えてというのは、「から衣」の「か」、「きつつなれにし」の「き」、「つまあれば」の「つ」、「はるばるきぬる」の「は」、最後の「旅をしぞ思ふ」の「た」で、「かきつばた」です。都に残してきた妻を思う歌です。

江戸時代の初めに、それまで写本しかなかった『伊勢物語』が、活字による本文に、木版による挿絵が添えられた本として出版され、人気を博します。この『伊勢物語』の燕子花の一節は人口に膾炙(かいしゃ)した、たいへん有名な一節でした。その一節が、《燕子花図屏風》のベースにあるんじゃないかと言われているのです。

光琳の三つの国宝のうちの一点、《八橋蒔絵硯箱》は、まさしく『伊勢物語』の東下りにヒントを得た作品です。八橋というのは橋が八つ架かっている所で、そこに燕子花が咲いているんです。箱の表面に橋を意匠化した鉛の板を配置し、そこに螺鈿(らでん)という貝殻の薄片で花を表現し、さらに金の蒔絵で燕子花の葉があらわされます。人物を描くことなく、周辺モティーフだけで物語の内容を表現する、これを工芸分野の言葉で「留守模様」といいます。光琳がこういうものを作っていることを考えると、やはり《燕子花図屏風》も、この『伊勢物語』東下りの一節からとったのである可能性が高い。「橋」という要素も取り払い、純粋に燕子花だけに焦点を絞ったと考えることができそうです。

実際この作品を目の前にしますと、自分が橋の上に立って燕子花を眺めているような錯覚を抱くんですね。画面右のほうでは燕子花が少し離れたところにずらっと並んでいる様子、いっぽう左側は燕子花の群れがずっと奥から手前にかけて迫ってくるような感じに見えます。それを橋の上から見下ろしているような感じを抱くんです。鑑賞者に物語に入り込んで、「かきつばた」という言葉に触発される『伊勢物語』の世界をほうふつとさせる、そんな仕掛けのある屏風なのではないかと言われています。

一方、この屏風は、幾何学的ともいえるモティーフ構成が特徴ですが、これはどんなところから来たのか。この屏風の絵、デザインの背後にあると言われているのが、光琳の生家・雁金屋の小袖の図案、つまり着物のデザインです。着物の袖と後ろ身ごろに燕子花を配したデザインが雁金屋の意匠図案帳にあり、よく似ているんです。光琳が幼い頃から目にしていた着物のデザイン、それを屏風の模様に適用したのではないかという推測ができます。着物の意匠を屏風絵に展開する、そういう一つの方法、絵の作り方が見えてくると共に、こういうアレンジ力もデザイナー的なものに思えます。


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