市民美術大学 特別講座 
「美術界の話をしよう 2」公開ディスカッション

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水沢勉

神奈川県立近代美術館の水沢と申します。建畠さんが美術館に就職されたのは1977年とおっしゃってて、「現代美術館」になるかもしれなかったものに「国際」という名前が付いたとのことですね。「国立国際」という日本語だと何となく語呂の良さも手伝っておさまるけど、英語でなんて言うんだろうね?と当時よく話題にしていました。

建畠晢

最終的にはThe National Museum of Art, Osakaになりました。大阪美術館、なんでもできる美術館ということですね。

水沢勉

日本語の便利なところでもありますが、何かメッセージは伝わってくる「国立国際美術館」が1977年に生まれている。ちょうどその翌年、僕は神奈川県立近代美術館に就職しました。そこに40年いますので、古色蒼然たる歴史の中に身を置いているなと、そのこと自体がこの頃は面白いなと思うようになってきました。「近代」という看板自体が、歴史的な検証を受ける面白い対象になりつつあると思っています。

神奈川県立近代美術館は1951年という早い時点でできています。その年の暮れにブリヂストン美術館ができて、翌年に京橋に国立近代美術館ができます。今の東京国立近代美術館に、「東京」という名称は付いてなかったんです。東京以外になかったら。京橋にあった美術館がフィルムセンターになって、近代美術館そのものは1969年に竹橋の今ある場所に移った。ブリヂストン美術館はもとの位置に残っていますが、今は改修中ですね。フィルムセンターはその後色々なことがあったんですが、今年4月に国立映画アーカイブという名称で、また別組織として制度を変えたんです。いっぽう神奈川近代美術館は2年前に八幡宮の中にあった鎌倉館は閉館しました。最初にできた戦後の美術館3つをとってみても、ある意味で歴史が一巡りし、歴史の節目を迎えている想いがあります。私たちがやってきた美術館の活動、あるいは日本の美術界の在り方が、20世紀後半から21世紀にかけて大きく変わってきているなと思っています。

その象徴的な出来事の一つが、金沢21世紀美術館の誕生です。今や観光地として大変賑わっていて、行くと中に入るのも大変、あの中を通過するのも大変、そのぐらい人がいる状態です。美術館というのがこんなに人がいる場所だったかなと不思議に思うぐらいです。人が人を呼び、人がたくさんいる所に行きたいっていう人をまた呼ぶんですね。これは行政的にはプラスのスパイラルですけれども、美術館的にはマイナスのスパイラルになることもありうるのですが、美術館という存在が社会の価値観を変える時代になったことは、確実です。それが金沢という都市で生まれたことは、すごいヒントを含んでるのではないかと思っています。

建畠さんのおっしゃっていた「近代」についてもう少しコメントします。近代美術館というのはものすごく前からあるように思いますけれども、同時代の美術を並べなければいけない、特にフランス印象派以降、同時代の美術を保存してちゃんと未来に残していこうという意識そのものは歴史的には19世紀後半にはあったのです。でも、それを美術館という形で整えなければいけない、という考え方が生まれるのはけっこう遅かったんですね。

松方コレクションが現在国立西洋美術館に収まっている事実は、逆にフランス人が印象派を当時そこまで重要視していなかったことを物語っています。だから日本の裕福なコレクターが、一気に集めることができたわけです。なぜかというと、印象派はまだ現代美術であり、価値が定まっていなかった。それを国が引き受けていいのかという議論があり、フランスではコレクションとして入っていかなかった。もちろんその後オルセー美術館ができてしっかり収蔵されるようになりましたが、評価が定まるにはある程度の時間を要したんですね。

そうしたことを踏まえ、現代、近代、あるいは同時代というものを大切にしようというメッセージが出たのは、1929年のニューヨークでした。つまり近代美術館という考え方、現代美術館、同時代美術館という考え方は、実現してからまだ90年も経ってない。非常に歴史が浅いんです。そしてMoMAの次にパリに生まれた近代美術館の歴史をさらにその次に引き継ぐのが神奈川近代美術館なんです。MoMAの開館から22年という短い間に、極東の敗戦国の鎌倉の八幡宮の平家池に面した境内に美術館が、「近代」のために建てられた。その時代において、1951年の時点では、「近代」というものはたいへんポジティブな、輝くメッセージを持っていた。当時の近代の意味するところはほぼ現代、今僕らが言うところの現代美術と同じだと思います。翌年、京橋に国立近代美術館ができた。

それから半世紀以上経って、次々に新しい美術館は「近代」の看板は外して次のステップに入ろうとしている。そういう時代に僕らはいる。奇しくも兵庫の県立近代美術館も、1995年の震災の復興のメッセージとして新しい建物を建てたときに、県立美術館になった。富山も、今までの近代美術館の建物自体はまだ残っているので、それをどう使うか検討しているかとは思いますが、まったく新しい建物として富山県美術館を昨年オープンしている。近代はどこへ行ってしまったのだろう? そのことはよく考えなければいけないテーマだと思っています。

近代、現代の日本の美術もつくらなきゃいけないという意識が生まれたのは、明治末年。東京美術学校の美術史の先生だった岩村透が、フランスから帰ってきて、日本でも、美術館に同時代の美術を集めて人に見せなければいけないと考えた。明治50年という時代を区切りに、1918年に美術館をつくったらどうかと岩村は進言している。その時には「現代美術館」という言い方をしている。実現はしませんでしたが、岩村透らしいアイディアでした。そのとき、日本では官展の文部省展覧会というのが1907年にできていて、じつはこれが東京国立近代美術館のコレクションの出発、起点の年なんです。国がつくった展覧会に対して、それに対抗勢力が次々と生まれているのが、1912年以降です。そういう流れを岩村透は重要視していて、そういう反逆も含めたアートを集めて、美術館で公開していかなくてはいけない、ということを、時代の機運に合わせる形で、提言していたんです。それからほぼ100年経ったのが現在の私たちです。当時、岩村があれほど望んだ近代、現代という言葉がもう消えつつある、というところに私たちはいるんじゃないかと思います。

秋元雄史

今水沢さんが近代美術館の誕生についてお話されましたが、1951年ということは終戦から6年後です。まさに復興とともに日本の近代化の中で誕生した美術館が、あの鎌倉の近代美術館。それから70年代、80年代に多くの国公立、それも県立だけでなく、市立や区立の単位で設立されてきて、建畠さんがおっしゃったように約400という数の美術館になっていくわけです。この間が30〜40年、半世紀も経たないうちに、この小さな日本の中に美術館が急激に増えたということです。基本的には鎌倉の近代美術館の考え方が広がって、日本中に美術館が生まれてきたということでしょう。ホワイトキューブ、白い壁を持つ空間で、絵や彫刻が展示されることがスタンダードになっていく。それまでは壁一面に何段にも展示されていたんですが、そうではなく、一つ一つ壁に並べていって、ある種時間的な、歴史的なパースペクティブの中で、自分たち人類がつくりだした美的な遺産を眺めるような見方が定着していった。これはアメリカのMOMAをはじめとした近代美術館の基本的な展示の方法でもあるのであり、それを鎌倉の近代美術館を始めとして、多くの日本の美術館が取り入れたということでもあるのです。

さて、それを踏まえて、私自身の経験を通して別のアートの可能性についてお話をします。私は1991年からベネッセという企業に入って、そこで学芸員の仕事に就きます。そのときにした仕事が直島という島で開始されたアートプロジェクトです。ここでの特徴は、今お話したような美術館というものの中で美術作品を歴史的に展示するというのとは少し異なった形で現代美術を展開することでした。そこで15年間勤め、その後金沢21世紀美術館へ移りましたが、まずは直島の話を少しします。

直島は、神奈川近代美術館とは違って、一つの美術館という施設を通じて美術を紹介するというのとは異なっていて、島という場所を芸術の場所として捉えて、そこで美術作品を制作し、建築を作っていきました。島は、人が暮らすエリアがあり、また瀬戸内海の自然が残るエリアがあるのですが、そういった島の特徴を活かして、それと組み合わせるように美術作品を制作していったのです。そういう意味では島全体が、美術館ということができるかもしれませんし、人が暮らすエリア、生活の場に美術を直接に関わらせていったとも言えるかもしれません。

美術館は一種の教育装置のようなところがあって、教養を高める場として、あるいは歴史を学ぶ場として、あるわけですが、そういう社会教育的な場として美術館を運営するということではなく、いきなり美術を生活圏の中に入れていったというのが、直島のアートプロジェクトです。ですからアート活動は、一種の緩やかな社会活動的な側面をもっていたり、まちづくりという側面を持っていました。アートが実社会とつながっているので、作品だけでなく、アーティストを含めた活動の総体が意味をもちます。出来上がった作品だけでなく、アーティストが島に滞在していることや島の人達と関わっていること、またときには一緒に制作をしたりすることがプロジェクトの一部を構成しました。そういったことが地域社会の新しい文化となっていきました。

島という特殊な、閉じたロケーションであることも関係して、地域社会の中で文化的な価値が共有されていきました。3千人ぐらいの小さなコミュニティなので、非常に濃密な関係の中で現代美術が伝播していく。生活に近い美術ということで自分たちの日々の価値観とも連動していきます。祭りなどとも関わりをもち、米作りなどとも関係する。生活文化と密接にかかわりながら現代アートが息づいていきました。

美術館とは異なるオルタネティブな創造の場として、日本でのアートプロジェクトが意識され始めたのが、21世紀になってからでしょう。「美術館から社会へ」、また「都市文化とは別に地方の文化発信としての現代アートへ」といった動きができていきます。また学術的な視点からのキュレーションだけでなく、創作的なキュレーションも生まれます。他にもモノからコトへ、アートからまちづくりへ、といった様々な方向に現代アートの可能性は展開していきます。こういった傾向の背後にあるものは、やはり美術と社会のダイレクトな関係であり、一種の<行動>としてアートがあるところだろうと思います。社会活動としてのアートといってもいいかもしれません。こういった活動は、同時多発的に生まれていて、直島が先行し、直島だけがアートの関係を変えたわけではなく、越後妻有のアートトリエンナーレや佐久島のアートプロジェクトなどがありました。それ以前に先行し、直接地域社会に関わっていくアートの事例はありましたが、ある特定な場所で長期間に渡って行われてきたという点で直島はやはり特別な場所でもありました。

遡って現代アートの特徴を振り返ってみます。現代アートは戦後に大きく展開しました。例えば60〜70年代は様々なムーブメントが生まれた時代です。美術的、造形的に展開する一方で、そこからはみ出して社会への反抗的なメッセージを発したり、反社会的な行動を行ったりもしていきます。保守的な価値観を批判していく社会変革の一つのツールにもなります。また同時に都市の新しい文化的なイメージを発するアイコンとして、ファッション、デザインなどと一緒に時代の最先端の文化をつくり、若者を牽引していきました。80年代に入るとさらにエンターテイメント性が増し、サブカルチャーなどとも関連を持ち始めます。現代アートがポピュラーになっていった時代です。90年代には、その動きは更に拡大し、欧米先進国だけでなく、日本、アジア、オーストラリア、南米などに広がります。グローバル化時代の到来です。この流れは今日まで続いています。直島のプロジェクトの開始は90年代からですから、まさに日本の現代アートがグローバル化した時代からはじまります。

私の仕事の話の続きを通して美術の話をしますが、2006年で15年間関わった直島を離れて、2007年からは金沢に移り、金沢21世紀美術館の仕事をします。10年間努めました。金沢の美術館は、現代アートを専門に扱う美術館であり、ホワイトキューブ型の近代美術館の形式を現代的に発展させて生まれた美術館です。つまり美術の実験場として、日常とある一定の距離をとり、純粋に美術だけを考える場所として生まれた近代美術館にルーツをもつ美術館であり、それを今、正に刷新されつつある美術によりビビットに対応するために生まれた現代美術館でもあります。直島はホワイトキューブ型美術館の外からはじまりましたが、金沢の美術館は、近代美術館を展開したものです。

このように2つの異なった出自をもちながら、一方でアートの扱い方に共通な部分がありました。互いに求めていった美術の在り方はどこかで似通っている点もないことはないのです。日常とのつながりや社会との関わり、<もの>から<できごと>へ、あるいはプロセス重視の姿勢やアートの活動性に注目していく点などです。金沢の美術館の方針は、「今まさに活動している現代アートを紹介する」ですから、現代アートの“いま”を見せようとするとそこで直島の活動と傾向が交差するということが起きるのです。今の美術の動きに従えば、美術館の中だけで活動が収まらずに外に出ていく。逆に外からもリアクションがある。美術館に入り込んでくる。美術館は一種の美術的なフィルターのような存在になり、街やその社会と関わっていきます。すると、美術館は、社会教育装置みたいなものから、町づくり、地域興し的なもの、人的な交流の場所といった場所にシフトしていきます。結果的に水沢さんがおっしゃったような、膨大な数の人が集まるようになりました。

これはべつに観光を狙ってやったわけではないんです。観光施設にするために美術館の活動をしていたわけではなくて、たまたま町との関係の中で美術を展開していったところ、観光の目玉にもなっていき、大勢のお客さんに来ていただけるようになった、ということです。私はもう離れましたが、現在のメンバーは、こうした状況の中でちゃんと美術をお見せできているのか心配だと言っていました。週末には1時間ぐらいの入場待ちの列ができます。時折建物の前で、これから入館するお客さんから「これは一体何の施設ですか?」と尋ねられられたりする。観光できた人たちが予備知識なしに入っていくような状況にもなっているんです。現代アートの置かれている状況が様変わりしてしています。

かつての直島や、80〜90年代頃までの現代アートというと、人が来ないのは当たり前でした。そうした時代からすると、隔世の感があります。当時人気のあった原美術館ですら年間入場者数4万人という時代でした。今や金沢21世紀美術館は、年間260万人という異様な数字を叩きだしていますし、3千人しか住んでいない直島には年間70万人が詰めかけている。明らかに水沢さんがおっしゃったような、初期の近代美術館立ち上げの時期からすると、大きく美術館のおかれている社会的な状況そのものが変わってきたと思えます。


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