市民美術大学 特別講座 
「美術界の話をしよう 2」公開ディスカッション

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伊東正伸

他の3名の方と私はちょっと立場が異なっています。美術館での勤務経験はなく、いわば外から日本の美術界を見てきた立場です。逆に知らないから見えることもあるのかな、と考えて今日は参加させていただきました。私は7年間新聞社に勤め、主に事業部で美術展を担当しました。ご承知のとおり、日本では新聞社、NHK等テレビ局が文化事業の一環として美術展を主催しています。新聞社、テレビ局がどのような役割を担っているかというと、広報や資金調達にとどまらず、展覧会全般のオーガニゼーションに携わっています。新聞社は海外の美術館から国内の神社仏閣まで、非常に広範なネットワークを有しており、また展覧会のコーディネート能力に長けた経験豊富なスタッフを抱えています。美術館において大型企画展が実施されるにあたっては、マネージメントを請負い、その財布を握ることによって、新聞社やTV局の立場はより強固なものとなります。日本を代表する国立美術館や国立博物館であっても、新聞社やテレビ局の強力なバックアップ抜きには、大型の企画展がやりにくいといういびつな構造が、開館以降、現在に至るまで続いているのです。

私が新聞社にいた1980年代から90年代初頭にかけては、首都圏の百貨店ミュージアムが全盛でした。なぜ百貨店にミュージアムかというと、イメージの向上と、集客効果を狙ってのことだと思います。池袋には西武と東武、新宿には伊勢丹、三越、小田急に「美術館」がありました。他にも、大丸やそごうもそうです。サービスや運営面に限って言えば、当時の百貨店ミュージアムは、国公立美術館よりも一歩先を行っていたのではないでしょうか。アクセスは抜群、多くは駅から直結でした。比較的夜遅くまで開館していて、仕事帰りにも立ち寄れる。会場の展示空間構成では、いち早くデザイナーを起用して、時に実験的であったり、丁寧で見やすい解説パネルや年表も用意されていました。ミュージアム・ショップも充実していたと思います。

展覧会のラインナップとして、絵画展や彫刻展に限らず、写真やデザイン、生活全般など新しいジャンルにも積極的に取り組んだ点など、ポジティブにとらえる要素がありました。新宿の伊勢丹美術館は、最盛期で1年間に18本企画展を実施していました。今、日本の美術館は年間3本から5本程度の企画展を実施するのが普通ですから、18本というのはすごい数字です。しかもその半数は実施経費の嵩む海外から作品をもってくる展覧会でした。もちろんなぜ百貨店が美術展をやるんだとか、美術を消費しているんじゃないかとか、内容が偏っているなどという批判は常々ありました。印象派とかエコール・ド・パリとか、集客が期待できる展覧会、百貨店のイメージに合致すると経営側が考える展覧会を繰り返していたということは、確かにあったでしょう。ただ、観客へのサービスという点では、今日の美術館活動の先鞭をつけるものだったと言えるのではないでしょうか。

しかし、こうした活動は長続きせず、百貨店ミュージアムは2000年前後には、百貨店業界の不振もあって軒並み閉館してしまいます。このことは、実は地方の公立美術館にも大きな影響を与えました。これまでは百貨店ミュージアムがスポンサー的な役割を果たして、地方の公立美術館といっしょになって展覧会を企画して、そこに新聞社がとりまとめ役を担いながら、東京発の展覧会を全国各地に巡回させる形で成果を上げていたからです。賛否両論はあったとはいえ、こうしたシステムが崩れたことにより、地方公立美術館は限られた予算の中で、集客が期待できる海外展を実施することが次第に困難となり、その活力の一部がやや削がれてしまったように思います。ちなみに、百貨店における美術展は、フランスにおいても過去に実施例が見られるので、日本特有の現象とまでは言えないまでも、短命に終わった「本格的」な百貨店ミュージアムは、日本独特の産物だったと言えるでしょう。

私はその後国際交流基金に移りました。国際交流基金は、外務省の下で日本と諸外国との文化交流に取り組んでいる独立行政法人で、いわゆる半官半民的な組織です。主要事業分野として、海外における日本語教育、日本研究・知的交流、そして美術や舞台芸術などを通した芸術交流を3本柱として活動しています。私の場合、1991年から美術交流を担当していて、いかに日本美術を海外に効果的にプロモーションしていくか、それによって海外に日本のファンをどう増やしていくか、日本への関心と理解をいかに深めてもらうかという課題に、ずっと取り組んでいます。1980年代から90年代にかけて、日本経済が絶好調を迎えると、それに後押しされるように日本美術が次々に海外で紹介されました。日本の現代アートも欧米を中心に、多方面で繰り返し紹介され、日本美術の国際化がある意味達成されたのではないかと思います。多くの日本人アーティストが、日本とか東洋という色眼鏡を通すのではなく作品本位で評価され、世界各地で作品を発表する機会を得ています。

日本の現代アートを国際発信する上で格好の舞台となっているのが、ヴェネチア・ビエンナーレです。ビエンナーレ、トリエンナーレは今や世界各地で数多く実施されていて、日本国内にもたくさんありますが、ヴェネチア・ビエンナーレは、100年以上前に始まり、現在ももっとも影響力のある国際展の一つと認識されています。万博のように参加国が自前のパビリオンを有し、そこで自分たちの国のアーティストの作品を紹介する、という仕組みになっています。オープニングの数日だけで世界中から7千人を超える美術記者、キュレーターが集まる特別な場です。国際交流基金は、このビエンナーレの日本館における展示を主催していて、毎回日本代表アーティストによる展覧会を行なっています。ここで評価を受けると、瞬時に世界へ広まり一気に注目を集めるということで、毎回非常に力を入れて取り組んでいます。

ヴェネチア・ビエンナーレへの参加を重ねていく過程で、その盛り上がりを目の当たりにして、日本が自らの国際展を持つべきではないかという議論がわき起こっていったのも自然の成り行きでした。なぜ日本にビエンナーレ、トリエンナーレかというと、日本の美術や文化を世界に向けて発信する場が日本国内に必要と考えたからです。また、海外の最先端のアートを集約的に見せることができる。それによって、鑑賞者のみならず、アーティストや関係者にも創造的な刺激を与えられ、日本の現代アートの底上げ、活性化、国際交流の促進が図れるのではないかと考えたからです。そこで各方面と協力しながら、2001年に第1回横浜トリエンナーレを立ち上げました。

ここにいらっしゃる中村信夫さん、建畠晢さんの他に、森美術館館長の南條史生さん、当時京都国立近代美術館の研究員だった河本信治さんがディレクターを務めました。第3回横浜トリエンナーレでは、水沢勉さんがディレクターを務め、国際的な事業を行ってきました。国際交流基金自体の関与は第3回展までですが、その後も横浜トリエンナーレは継続的に開催されています。ほかにも越後妻有トリエンナーレ、あいちトリエンナーレなど、日本国内でも多くのトリエンナーレが実施中です。それに加えて芸術祭、アートプロジェクトも近年盛んになっています。九州近辺に限っても、福岡にはアジアに特化した福岡アジア美術トリエンナーレがありますし、国東や別府、大分でもアートプロジェクトが行われていますね。

こうした多種多様な文化事業やイベントは、地域振興とか町おこしとか住民参加という意味では、有効なツールとなっていて、地方文化を豊かにしていくうえで重要な役割を担うものと期待されています。他方で、全国各地で似通ったものが多く、日本を代表するような突出した存在が見当たらないのは残念なことです。さきほど言ったヴェネチア・ビエンナーレというのは、イタリアのみならず世界のプロジェクトとなっているわけですが、残念ながら日本にはそのような場は見当たりません。東アジアということで考えてみると、韓国の光州ビエンナーレは国際的なイベントとして定着していて、毎回充実した展覧会を行っています。国際空港といっしょですが、東アジア地域においてどこがハブを握るかは大きな問題です。人や情報がそこに集まり、そこから世界へ発信されるからです。今は光州に先を越された感がありますけれども、日本にも世界水準の国際展が必要だと思います。

最後に、地方公立美術館の話に戻ると、芸術祭、アートプロジェクト、トリエンナーレの盛況を横目に、地方美術館はかなり苦しい状況にあります。新潟を拠点に活動するNoismの芸術監督の金森穣さん(りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館・舞踊部門芸術監督)は、「美術館も図書館も世界の文化と繋がる場所。施設は地域に根差したローカルなものだけれども、そこへ行くと世界のさまざまな時代の人間の想像力に触れることができる」とおっしゃっていますが、私たちはこの言葉によく耳を傾け、自分の街にある美術館の大切さを改めて考えるべきではないでしょうか。イベントで盛り上がっていくことも重要ですが、地方公立美術館が誕生した時の高揚感を皆がもう一度思い出して、きっちりとその活動を支えていく必要があると思います。


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