市民美術大学 特別講座 
「美術界の話をしよう 2」公開ディスカッション

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中村信夫

ではこれから質問をしていきます。地域の活性化にはいろいろな方法があるんじゃないか、今実際にあるビエンナーレ、トリエンナーレ、アートで町おこしというのはそこらじゅうに溢れている。僕から見ると、失敗しているとは言えないけれど、あまり盛り上がってない、あと5年もすればほとんど消える可能性もあるのではないかと予想しています。その時、次にどうするのかを考えることはとても重要なことです。東京はオリンピックで盛り上げることができますが、オリンピック以降どうするのか。一人ずつ、何かアイディアがあればお話していただけますか。秋元さんがさっき言っていたけど、金沢21世紀美術館に来た人が「この施設は何なんですか」と聞くのは、大変微妙ですよね(笑)。

秋元雄史

現代アートや美術館が観光施設になり、ときに観光の目玉にもなっているということだと思いますし、そういう傾向は求められていくんではないかと思います。

中村信夫

そういうことも起きている中で、施設をつくる、イベントを行うとはどういうことなのか、話していただければ。

建畠晢

近代美術館というスタンダードがあって、これは全部無機的な白い箱です。ということは、世界中どの美術館とも交換可能なんです。つまり風土性、歴史性に依拠していない。でもそういうスタンダードは将来的に必要なくなるということではないんです。非常に重要な意味を持っているんですが、地域の特性や地域振興とは別のことです。その次のステップはどうなるか、という話です。
一昔前、美術館ブームの前に、総合文化会館、多目的施設が結構あったんですね。まだあちこちに残っていますが、そこではお茶会もできれば、展覧会もやれれば、音楽や演劇のためのホールもある、そういう多目的施設がありましたが、多目的は無目的と揶揄されるように、使い勝手は必ずしもよくなかった。

その後、専門化のブームが訪れた。例えば近代美術館ができてそれがスタンダードになると、その次の世代のもの、ということで金沢21世紀美術館や現代美術館です。ジャンルでいえば陶芸館、版画館、写真美術館、いろんなものができた。そこには専門のキュレーターがいて、専門的な知識を持っていて、そのための施設も整っている。そして展覧会のレベルが上がっていくんです。これは美術館だけではなくてホールのほうも、室内楽専用ホール、シンフォニーホール、オペラのためのホール、狂言の劇場などなど、どんどん専門分化していった。これは素晴らしいことで、文化活動のレベルもイベントもレベルが上がった。ただ、ジャンルごとに分断されていくんですよ。どんどん分断されていって、相互交流から遠ざかっていく。

新しい運動というのは、美術館の外の巷で起きるわけです。分断されればされるほど、美術館は新しい運動を喚起する場として機能しなくなっていきます。歴史的に見ても、キュビズムもシュールリアリズムも、日本の具体、もの派などの当時の前衛的な運動は美術館の外で起きている。もちろん美術館は先端的な新しい動向を紹介することはします。つまり美術館は新しい状況をつくっていくのとは別の機能を持っているんです。美術館の力が支配的になりすぎると、アイロニカルな言い方をすると「美術館栄えて、現代美術滅ぶ」ということで、何も起きなくなってしまう。だから美術館は要らないということではありません。近代美術館というスタンダードは必要だけれども、それぞれの地域の要望、歴史的性格、風土性、いろいろなものを考えた運動が起きればいいと思う。

そういう意味ではトリエンナーレ、ビエンナーレはかなりそういうことを意識してやっています。例えば一番分かりやすいのは、越後妻有トリエンナーレは豪雪地帯の過疎地で、展覧会は難しいのではと思われていた所もあったのですが、すが、北川フラムさんが成功させ、地域密着型で非常に多くの人が来ている。同じく北川さんがやっている瀬戸内国際芸術祭も地域密着型ですね。船に回らなくてはいけない不便なロケーションであるにもかかわらず、多くの人を引き寄せている。横浜トリエンナーレは海港都市という性格をそれなりに反映していますし、あいちトリエンナーレは長者町という商店街で町と一体化した展示をしたり、いろいろな試みが行われています。一つのスタンダードとは違った方向に行く、ということがこれからの動きなのかなと思います。だから、この手でみんないきましょうということではないんです。北九州は北九州で、その地域ならではのやり方があると思います。産地の名物をつくれということではなくて、差別化を図るということですね。

もちろん地域の特性を活かすことが、これからすべての美術館が向かうべきだとは思わない。多様性というのは、近代美術館があってもいいし、トリエンナーレ、ビエンナーレがあってもいいし、地域の特性を活かした美術館があってもいい。いろんなものが許容されていくということです。つまらないと言えばつまらない結論ですけど、そのように見ています。

もう一つ言っておきたいのは、美術館像というのは、その地域の住民のリテラシーに依拠しているんです。リテラシーとは、「識字率」「読んだり書いたりする力」のことなんですけど、最近はメディア・リテラシー、スマホ・リテラシーなどといって、スマホを使いこなす力、タブレットを使いこなす力などを差す意味で使われるようになりました。先日ある科学者と話したんですが、サイエンス・リテラシーという言葉があるんだそうです。専門的な科学を市民が理解する必要がある、それは専門家に任せておくわけにはいかない、だからこそ原発事故が起きてしまったのだ、と。その科学者はシンポジウムで「リテラシーは、批判的読解力のこと」と言いました。

美術館に対してもリテラシーが必要です。美術館を使い倒す力。利用する力であると同時に、美術館に批評的なまなざしを注ぐ力。それは美術館にとってありがたいと同時に、うるさい人です。美術館は小さな、ささやかな権力だから、専門家に対しての一般市民を「素人」とみなしてしまいかねない。その独善性を防ぐためには、市民の側も美術館に対して批評的なリテラシーを持ってほしい。文句つければいいということではなく、客観的に見ていろいろなコメントをつけられるような力のことです。そういうリテラシーが地域住民に涵養されることが、美術館のみならず文化施設の活動をより充実したものにするのではないかと思います。

水沢勉

美術館へのリテラシーはすごく必要で、こういう場で意見を交換したり、質問したりすることによって、共有できてくるようになるのではないかと思います。昔に比べると、今日のような機会は、はるかにあるんですね。

僕自身、日本各地で開かれている展覧会に興味深いものはあるし、情報はチェックするけど、ほとんど実際に見ることができない。本当に数多くの様々な文化的なイベントが仕組まれている。そこから何を選ぶか、そこがむしろ問われていると思います。

中村さんや建畠さんたちと一緒に始めた頃は、お互い顔がほとんど見えていた。誰がどこで何をやっているかも、だいたい見当がついた。現代美術で誰かが何かを仕掛けようとしていると、「ああ、それはあの人とあの人だな」とだいたい顔がすぐに浮かんだし、今何をしようとしているか分かった。商業ギャラリーもどこが重要な動きをしているのか全部見えていた。(正確にはそんな風に感じていた。)今はそんなことがありえない、情報は過剰なほどある。それをまたどう読み解いて、自分の人生を豊かにするかというリテラシーが必要になっている。

そういうもののメリハリをつけてくれる施設として、東京国立近代美術館や神奈川県立近代美術館が「近代のリテラシーを高めるために機能しているか?」と問われているかというと、それは十分ではないような気がします。はっきり言うと、東京国立近代美術館はもっと厳然と近代に関してのハブ的な美術館であってほしい。日本の近代とは何だったのか、毎年問いかけるような、重厚な展覧会を、あれだけ豊かなコレクションを擁しているのだから、やってほしい。

それを踏まえて地方の美術館は、巡回展や思いつきではなく、それぞれの地域における近代美術を、例えばこう考えますという一種のオルタナティブを、コンテキストの中で提案していく。そうした活動の積み重ねで、メリハリが見えてくるのではないでしょうか。文化の価値の多様性みたいなものを編み出していくようにならないと、どこで何を見たらいいのか、なりゆき任せみたいになってしまう。派手な宣伝広告に引っ張られて、それが判断基準になる状況に飲み込まれつつある。過剰な情報の中で、判断基準を失っていくと、当然、リテラシーは弱まっていく。美術館は、ある基準を見せる仕事をする施設であるという意識を、しっかりプログラムして持たないといけないかな、というのが僕の気持ちです。

秋元雄史

いろいろなタイプの美術館が生まれて、それぞれで役割も担っていくというのは、見る側にとってもわかりやすいのではないかと思います。美術展ではなくて、美術館で生き場所を選ぶ時代になっていくということですね。私は美術館がどんな美術を扱うかということと同時に、どんな場所にあるかということも美術館のポジショニングを考えるときには重要なファクターになるのではないかと思います。これまで私は、人口3千人の直島、45万人の金沢という場所で美術館を運営してきました。そのときにその地域の社会や歴史的なことなどの属性を意識していくことは、どんな美術を扱うかということと同様に重要な気がしますね。「どんな企画展か」から「どんな美術館か」、で美術館を選ぶ時代がくれば、美術館の棲み分けができるようになると思いますね。

全く違った話で恐縮ですが、次の時代の美術館像についてです。ここからはまったくの空想です、全然何の裏付けもなく言いますが、よりバリアフリー化が進むのではないかと思っています。フィジカルなバリアフリー化だけではなくて、提供するプログラムやサービスも含めてです。情報アクセスの在り方も、バリアフリー化するだろうと思っています。これまでは、建物は石造りで重厚だけれど入りづらい、中に入れば、静かにしなければいけないし、子供などは連れて入りにくいという印象を多くの人が持っていた、ところが金沢21世紀美術館や青森県立美術館、十和田市現代美術館、最近では大分、富山の美術館など、施設的なバリアフリーが進んだだけでなく、提供されるプログラムにおいても、バリアフリー化が進んで、様々な人達がアクセスしやすいようになってきた。物理的なハードルだけでなく、心理的なハードルも低くなってきた。これがこれまで美術館に足を向けることのなかった人たちに足を向けてもらえている原因なのだと思います。そしてこの傾向は、今後も続く。様々なレベルのサービスで進んでいくでしょう。チケットもスマホをかざすだけでOKとか、写真も取り放題とか、お子さん連れでも気兼ねがなく、入場できるとかです。ある意味では、コンビニ化するともいえるかもしれません。コンビニで物を選ぶように、美術館でサービスを受けることができるということでしょうか。

こうした「コンビニ化」は進んでいくんだと思いますが、さらに進んで自宅のパソコンからクリックするだけで美術館につながっていくアマゾン化みたいなことも起きるかもしれない。そういった方向に向くじゃないかという気がしています。これが美術的なあるべき姿かどうかはわかりませんが、社会のサービスのあり方の変化を見ていると、こうなっていってもおかしくはないかなと思いますね。その中でキュレーターなり、専門家は、どういうプログラムの組み立て方をするか、今までとは違うことが起きるんじゃないかと思っています。私は今、練馬区立美術館のリニューアルにかかわっているんですが、そこで次の時代の美術館像を模索していくということができればいいかなあと思っています。なにか実験的なことができれば面白いな、とひそかに思っています。

伊東正伸

美術館というのは生涯学習を実践していく場ですから、コミュニティの子どもから成人まで学んで楽しめる場所という位置づけです。学校教育、大学とももっと連携していくことなど、すでに行われていることですが、そういう地道な活動をより発展させていくことにより、再活性化をはかるという方法もあるのではないかと思います。

韓国の国立現代美術館の例ですが、旧館はアクセスの悪い丘の上にあるんです。近くには動物園があるぐらい。その美術館のセンターピースとなっているのが、韓国の巨匠ナム・ジュン・パイクのTVモニターをたくさん組み込んだ、塔のような作品です。そんなに子どもに取っつきやすい作品というわけでもないはずですが、動物園に来た子どもたちが、次々に美術館に入ってきて、最初に目にふれるのがこのパイクの作品です。皆がスロープを回りながら、この作品を熱心に見ていく。こういった幼児体験は重要だと思います。正しく何かを理解しなければならないというのではなく、「何かヘンだけど面白いな」とか、自分が思うままにそういった作品を見たり感じたりすることは、子どもにとっては重要なことです。今後の教育にも生きていくと思います。美術館が単体でアクションを起こすのも必要でしょうが、それだけでは地域に孤立しかねない。学校教育やコミュニティの活動、はたまた芸術祭との連携などを通して、点を面にしていくような知恵が求められていると思います。


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