市民美術大学 特別講座 
「美術界の話をしよう 2」公開ディスカッション

1 2 3 4 5

中村信夫

秋元さんのインターネットに関連する話ですが、そういう話は実は全くないわけではないんです。「空想美術館をやらないか」という話があって。コンピューターの画面の中で、仮想現実の中でアートを体験していく。AIがアーティストに取って代わって、例えばあるアーティストの個人情報をすべてAIに読み込ませれば、作品も作れる。そうなってくると、将来はどうなるんでしょう。もしかして巨大な建物としての美術館はもう要らないかもしれない。作品はAIでつくれる、企画もAIでできる、空間もバーチャルに作れるのであれば、キュレーターもいらないかもしれない。逆に言えば、バーチャル上では誰でも展覧会を企画できるようになるかもしれない。

20年前にCCAをオープンした時は、「1つの展示スペースを持つだけで、資料だけ集めて、現代アートの研究施設なんて生意気なこと言ってて、何をやってるの?」と言われたものです。でも今は誰もが知っている通り、ハードにお金をかける時代ではない。建物はもはや重要ではないんです。公共施設にお金をかけるリスクは、美術館だけではなく、オリンピック開催地でも問題になっていることですよね。 

CCAを始めた頃は、海外からくる若いアーティストでも、コンピューターを持ってくる人なんか一人もいなかったし、携帯も全く普及していなかった。海外に電話なんて、高くつくからとてもできなかった。でも今はみんなコンピューターもスマホも持っているし、スカイプとかで何時間でも海外の人と話している。その時代の先にあるのはなんでしょうか。美術館はスマホの中に入っているかもしれない。

水沢勉

今はすべてをデジタルデータに変換していきますよね。アーカイヴもデジタル化するよう指導がくるし、将来のためにもそういう形で情報を整理しておきたいと思います。僕もいずれ離れてしまうし、展覧会を含め現実に起きたことを体験した学芸員はどんどんいなくなるわけだから。そういう情報を共有していくには、デジタル化しかないですが、それはとても大事なことですよね。そうすると、過去の展覧会も、将来何らかの方法で擬似体験ができるかもしれない。そのためのデータを整えておく、という段階ですよね。政府もそれを進めたくて、東京国立博物館を中心にコレクションのデジタル・アーカイブ化を進めています。検索機能があるのはもちろんですが、キュレーション機能に近いものもあるんです。例えば「猿」という展覧会をしたいとする。すると、「猿」というモチーフにした美術品はこれだけある、というように検索してくれるんです。AIが「これとこれを組み合わせるといいんじゃないですか」とか、参考例まで提案までしてくれるんです。

中村信夫

国際交流基金が今、「ジャポニズム」のプロジェクトで、重要文化財や国宝をパリで展示するために準備しているじゃないですか、輸送や展示期間中の作品の保存状態のことまで、とても大変な作業になると思うのですが、それも将来的にはもっとデータで何とかなるのかも?

伊東正伸

なぜ大変な労力と経費をかけて、さらにリスクを負いながらも、現物を動かし海外へ持っていくかというと、オリジナル作品のオーラ、空気、本物の凄さは何物にも代えがたいという大前提があるからでしょう。複製画は高画質であっても、やはり資料であって魂は注入できない。オリジナルな美術作品は、「美の大使」として立派に国際交流を推進してくれます。ただもちろん、作品の保存とどう折り合いつけるかという大きな問題が常について回ります。

建畠晢

今は単純な形でどの方向で未来へと進んでいくのかという予想は非常に立てにくい。新しい世の中に対応していくってことに意味がない、ということではなく、二者択一でないことです。例えばネットでいろいろな情報を収集することによって、非常に隆盛を迎えたジャンルは何ですかといったら、たとえば小劇場運動です。かつては100人ぐらいの収容人数で下北沢にいくつかあるぐらいだったのが、ネットカルチャーのおかげでさらに小規模な施設が非常に盛んになってきたんです。これはSNSがなければ成立しなかった。

そういうものを誘発することもあるので、何が起きるかは見えない。流行はすぐ終わるからということではなく、中には非常に本質的なものがある。地崩れを起こすように大きく文化が変わっていくかもしれません。ただ方向は、われわれが予想した方向が当たることは少ない。その非常に大きな本質がわれわれに見えなかったりしますからね。美術館が将来なくなる可能性があるかといったら、あると思います。もちろん数年後、数十年後の話ではなく、百年、二百年の単位の話としてはね。

秋元雄史

なくなるというか、私は形が変わるかな、とは思っています。ひとつ今世の中で話題になっているものの中に、ブロックチェーンがありますが、こういう分散型ネットワークがどう影響するのかなって思いますね。中心になる権威がなくて、互いに価値を支え合っていくようなかたちで物事が進むとなると美術的な価値体系の評価の在り方も変わっていくでしょうし、美術館が権威的に価値を発信していくということそのことが否定されていってしまうのではないかと思いますね。果たしてどのように美術館を仲介して価値をつくりだしてくのか興味深いところです。

もう一つ、アーカイヴとデータについてのお話が出てきました。水沢さんのおっしゃったキュレーション機能についてちょっとだけ訂正したいのは、あのキュレーション機能は人間がやっています。ここがキュレーション機能の非常に重要なポイントです。ある属性やキャラクターを持った人が選ぶことによって、付加価値ができているという意味で、伊東さんが言った「オリジナルが生きる」とか、建畠さんの言う「小劇場が生きる」のと近い。敢えて人がやっているものに対して、あらためて価値を見出すということが起きている。だから直線的に展開するわけじゃなくて、かなりジグザグな道を通りつつ展開しているので、どうなるか分からない気がします。ただ美術館は、危うい。われわれの職業は危うい(笑)。

建畠晢

エルミタージュ美術館とか大英博物館、メトロポリタン美術館は、たぶん100年後も存続している。危ないのは新しい美術館ですね。現代美術館とかはなくなるというか、大幅な変質をしていくと思う。

中村信夫

もし会場から質問などありましたらどうぞ。

参加者

僕は今大学4年生で、学芸員をめざしているんですが。美術は、消費の対象なんでしょうか? 僕は今年2月アフリカに行きました。その時、ティンガティンガ(1960年代末、タンザニアで発祥した絵画スタイル)というアフリカのアートに出合い感動したんです。ティンガティンガを詳しく調べて、卒業研究にしようと思ったんですけど、それを父親に止められました。なぜかというと、ティンガティンガについて調べてみると、美術作品はあるんですけど、土産もの絵画なんです。現地の人が海外から来た人たちに買ってもらうために始めたアートで、何かを表現したいと思ってつくっているものじゃない、というのが父の言い分なんです。そんなものは美術じゃない、だから研究対象とするようなものではないと。でも僕はそこに疑問があります。今の世の中を見ていると、美術も消費の一つとしてアメリカがつくりだしたパラダイムに飲まれている。大量消費大量生産の原理に飲まれていて、美術そのものも消費の対象になっているんじゃないか、と思ったんです。となると、ティンガティンガも今研究するに値するような価値があるんじゃないかと思ったんです。

建畠晢

難しい問題だと思うんですけど、僕は比喩的にいうと、美術は触媒だと思っています。そのもの自体は消費されないけれども、その前後でいろいろな反応が起きる。その表面でいろいろな触媒反応が起きる。それが人を感動させたりする。ただ、今言った「消費される美術」もありますよね、良し悪しの問題とは別に。まず研究対象にするとしたら、ティンガティンガの研究をすると同時に、「消費される美術」のありようについて研究してもいいと思う。

今までの僕らの世代のモラル、価値観からいうと、美術は消費されないものです。消費されるものが悪いって言ってるんじゃないですよ、流行が消費されることによって素晴らしい感動をもたらす。消費されるものが時代の世相をとらえることはあるから、消費されるがゆえにその時代をもっとも直接的な感覚を反映するということはあるので、良い悪いでは括れない。そういう美術作品のありようまた真実です。永遠の古典にはならないかもしれないけれども、かといってそれは貶められるようなものでもない。二者択一とは違う作品のあり方もあるかもしれません。今は消費だと思っていても、後に違うかもしれない。例えば浮世絵がそうです。消費的なイラストレーションのはずが、ある時期に古典として再評価された例もあるから、複眼的に考えるべきだとは思います。

秋元雄史

建畠さんの意見とほぼ重なるんですが、消費財にもなるし、そうはならないというのがここしばらくの状態でしょう。そしてその対象は広がっていくと思うのです。例えばこないだフランスのあるオークションで、漫画『鉄腕アトム』の原画が数千万円で落札されました。これまでの常識で言えば、いくらオリジナルな漫画の原本だといっても、まさか芸術作品としてここまで価値が高まるとは思ってもいなかったわけでしょう。それが、芸術作品と同様に資産性を認めたわけです。

芸術は更に広がっていくでしょう。アフリカの観光用のアートであるティンガティンガ派というのがありますが、それもオリジナルのティンガ・ティンガが描いたものやそれに類するものは、価格も高く、資産的な価値がある。ということはセカンダリーなマーケットがあるということ、つまり一時的な流行りでなく時代を越えて価値があるということです。世界中にそういったお土産アートというのは存在しますが、同時にお土産アートという体裁をとりつつも、そこからはみ出していくようなものもあるということです。

「芸術性」というのはもはや現代アートかそうでないかと行った、メディアのフォームというものとは関係がなくなっているのだろうと思います。芸術性があるかどうかということと、そして資産性があるかどうかということがどうやらさまざまなマーケットを通過しているうちに連動しているということがわかり始めてきたのだろうと思います。そして、それが行き過ぎるときもある。例えばマーケットでの評価が上がることで、逆に芸術性がクローズアップされてくるといったように逆転現象が起きる。美術館やアーティストはいつも金欠状態ですから、いろいろな形で商業主義的な誘惑がある。現代アートも飲み込まれそうになりながらも、なんとかうまく商業主義と付き合っていこうとする。だからアートマーケットが強くなる一方でそれから逃れていくアートも登場するわけで、そのやり取りは当分続くんではないですかね。

参加者

京都市美術館のネーミングが買収され、京都市京セラ美術館になりましたよね。それに関して思うところがありましたら、伺いたいです。

建畠晢

僕はその問題に関しては何回か意見しています。ネーミングライツというのは正当的な商行為であって、それ自体は法的になんら問題はありません。公立美術館に50億円という値段で50年間のネーミングライツを購入した、そのこと自体はいい悪いの話ではないんですが、美術館の公共性に照らして僕はちょっと疑問があります。例えばあれがメセナとして行われたことならば、一部のホールや講堂、または今度できる現代美術ギャラリーに京セラの名前を冠し、未来永劫その名前でいいんですが。僕はその方がスマートな方法だと思います。

先行例としてはロームが50億で京都会館のネーミングライツを買い、「ロームシアター京都」としたことがありました。僕は音楽には詳しくなく、その時はそういうものなのかなって静観していましたし、周囲でもそれに関しては大きな反対も起きませんでした。ただ、美術館に名前を付けてしまうということは、正直言って抵抗感を覚えました。

伊東正伸

海外の美術館でも、ギャラリーの一部屋だとか、建物の一部に企業名や個人篤志家の名前を付けたりする例はよくありますが、美術館そのものにスポンサー名を冠として付すという事例を私は知りません。米国の美術館は形態としては私立の美術館が多く、それゆえにスポンサーを大変大事にしますが、それだからこそスポンサーとの関係性については、よりセンシティブにとらえていると思います。


1 2 3 4 5